痺れるほど、溶けてしまうほどに嬉しかった

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痺れるほど、溶けてしまうほどに嬉しかった

 思い返すだけで息を飲み、今なお浮足立ってしまうほどに(きら)めいている。  ぼくの少年時代の憧れは、ともに汗を流した高架下の赤土(あかつち)にあった。  それから、団地のあちこちで跳ねるように降りそそぐ雨を凌ぐための――その傘にも。  高校生になって、ぼくは野球をやめた。  野球の神様に愛されていたはずのあの人もだ。  けど、二人の理由は決定的に違うだろうし、違っていて当たり前だと思う一方で、違っていてほしいとも願っている。  ぼくは今、あんなにも好きだった野球を続けることなく、アルバイトに明け暮れるだけの日々を過ごしている。  ▽ 『シフトの件、了解しました。先輩、卒業できたらいいですねw』  バイト先の格安焼き肉店。  昼の時間帯は主婦層、夜はサラリーマンや家族連れのお客さんでごった返す。  食べるにも働くにも賑わいのある店で、高校生になったばかりの僕はまだまだひよっ子なこともあって、先輩たちから可愛がられている自覚があった。  バイト帰りのぼくを乗せた電車は、ぽつぽつと降り始めた雨を避けるように屋根のあるホームに滑り込んだ。  十一月のつれない雨は、目前に迫る冬の到来を実感させる。  どんよりとした雲から吹きこぼれるように(しずく)がパラつくと、ただでさえ色彩を失っている街並みが暗色に染まっていく。  雨はその一粒ひとつぶにかっちりとした冷気を(はら)み、(かわら)やアスファルトにぶつかるたびに世の中に冬をまき散らしていった。  ぼくは朝方よりもずっと気温の落ちた夕暮れを尻目に改札を抜ける。 「……傘、忘れた」  独り言が、駅舎から吐き出される人波にさらわれていくようだった。  臨時休業のシャッターみたいに眼前に立ちはだる雨がぼくの行く手を阻む。  他の乗客たちは折り畳み傘やらを手に、足をとめることなく横断歩道の向こう側に消えていった。  濡れて帰るような年齢(とし)でもないし、仕方なく駅長室の前に設置された『善意の傘』コーナーに目を向ける。  スチール製の傘立てには、本当に雨凌ぎとして機能するかどうかもわからない代物ばかりがやみくもに突っ込まれていた。  仮にここが使えなくなった傘を回収するボックスだと言われても頷けるほどのありさまだ。  ビニール傘でも……と適当に手を伸ばした瞬間、隅っこにもたげる一本の傘が目にとまった。  真っ黒で、閉じていても生地を張る骨の多さが際立つ――  黒い()は手垢にまみれ、白色の刻印がとうに()げてしまった傘。  どっと記憶の船が転覆させられるほどの荒波に襲われる。  あの日のぼくらは肩を寄せ合い、一本の傘を差して雨のなかを歩いた。  それはたしかにあの人のモノで、きっと世界中でぼくだけが知っている。  おそるおそる手を伸ばす。  野球をやめてしまった後ろめたさと、それを(とが)めてくれる人がもう野球をやっていないことのやるせなさが胸のずっと深いところで共鳴している気がした。  あなたが野球をやめたから、ぼくは野球をやめた。  あなたが野球を続けなかったから、ぼくは野球を続けなかった。  痺れるほど、溶けてしまうほどに嬉しかった時間。  野球は、赤土に捧げたぼくらの想いのすべてを奪っていった。  かろうじて傘の柄から読み取れたその名前に……  せり上げてくる悔しさがぼくの両目から――あの頃の雨のように高架沿いの側溝へと流れていった。
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