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写真
彼女の話を聞いたのはいつ頃だったか。駅までの道に散らばって踏み荒らされた桜の葉が不快だったことをよく覚えている。
彼女が指定した喫茶店に向かうと、どうやら私より随分先に到着していたようだ。待たせてしまったことに断りを入れ簡単な挨拶を済ませる。大きな窓を背にして座っていた彼女は、美人とまではいかないが、どこか素朴で清楚な雰囲気だった。
彼女、と書くのは少し不自由なので、ありきたりではあるが彼女のことは「A子」と表記させてもらう。
A子が彼――B男と出会ったきっかけはマッチングアプリだという。私はそういうものには疎いが、様々なサイトの広告でも表示される、大手のものだということがわかった。
数多くいる男の中からB男を選んだ理由は、掲載された写真を見たときに「ビビッときた」からだそうだ。メッセージアプリの連絡先を交換し、実際に会うに至ったと話す。
B男と対面してみると更にビビッときたそうで、読書という趣味、そして同じ小説家が好きだったこともあり、会話は弾んだ。この人と絶対にうまくいく、結婚するかもしれないとまで直感した。
そしてB男がトイレに行ったとき、携帯が鳴った。B男からのメッセージだった。
「あなたが好きです」
スマートで知的に見えたからこその、ギャップというやつだろうか。私はその方法に良い印象は感じなかったが、彼女は彼のことを可愛らしい人だとそのときは思ったそうだ。
「あなたは美しい」
続けてそう受信した。A子は何も返信せず、トイレから戻った彼の様子を見て楽しむことにした。
しかし、席に戻ったB男はあまりにも普通だった。握ったハンカチをポケットにしまい、再び新作小説の話を始めるのを見て、メッセージのことは切り出せなかったという。携帯を机の上に置き、好意を抱きながらその話に乗った。
そして、ベストセラー小説が低俗に映画化されてしまうことについての話の途中。また携帯が二度鳴った。せっかく楽しく話しているのに、と思いながらも、その当時大事な仕事を抱えていたこともあり、ちらりと画面に目を向けた。
「あなたを愛しています」
B男からだった。まさに今、目の前にいる彼がどうしてメッセージを打ち込み送信することができるというのか。両手はテーブルの上のアイスコーヒーを握っており、そんな隙などなかったはずだ。
恐る恐るアプリを立ち上げると、
「うちに来て欲しい」
と書かれていた。
抱いていた感情は一変、恐怖、とまではいかないが不自然に思ったという。当のB男は気にもせず、小説について熱く語っている。
そのあと、しばらくは何も変なことはなかった。奇妙に思いながらも話を続けたという。
B男は自分でも小説を書いていると照れ臭そうに言った。好きな小説家に影響を受けた趣味程度のミステリ小説だと語るが、A子は興味があった。A子自身も執筆活動をしていたからだ。
その小説を読んで欲しいから今から家に来てくれないか、と提案された。読んでみたいとは思ったが、初対面の男の家に一人で行くのは不安だったこともあり、丁重に断った。B男は残念がったが、しつこく誘ってくることはなく、少しの間会話を続けたあと、先に会計を済まして帰って行ったそうだ。
自分も帰ろうか、と思ったとき、送信されてきたメッセージを思い出した。読み返すべく、トーク画面を立ち上げた瞬間に三枚、画像が送られてきた。
暗い部屋で撮られたかのような写真。一番上のものを拡大表示する。
このあたりからA子の表情が引き攣っていた。言葉を選んでいるのか、語りたくないのか、黙ってその写真を見せてきた。
暗くて画質も悪く、手振れもひどい写真。
目をこらすと、黒い部分は髪だろうか? それに気付くと全貌が見えてきた。フローリングの床に引き倒された女性。その横顔は、血液? 吐瀉物? であろうもので汚れており、女性の頭に乗せられているのは撮影者の足だろう。骨ばっているその足は、男性のものに見えた。
A子が画面をスワイプし、次の写真を表示する。
同じく暗い、先程のものよりも暗くて見え辛い。
これは、肉?
それが女性の胴部だと理解するのに時間がかかったのは、両手足、頭が切断されており、逆さに吊るされていたからだ。人間、として認識するのが難しかったのだろう。どのようにして吊るしてあるのかは見えなかったが、女性の性器か肛門から、縄か紐のようなものが伸びている。
「鏡を見てください」
A子自身は目を逸らし、タオルハンカチで口元を押さえて餌付いていたが、私は鏡に注目した。
少しいいですか、と声をかけるとA子は無言のまま頷いた。画面を二本指で拡大しすると、鏡の中にぼんやりと影があった。色調補正でもすれば、はっきり見えるのだろうが、涙目で何度も「ごめんなさい」と小さく繰り返しながら嗚咽する今の彼女にそう提案するのは酷に思えたので私は黙って注視した。
歪な赤い顔。表情が歪だとか、そういう意味ではない。単純に顔が崩れている。
「彼です」
正確には、彼、ではなくB男の本名を口にした。
「どうしてわかったんですか」
こんなに、崩れているのに。とは続けなかった。
「送られてきたときは、崩れてなかったんです」
A子は幾度となく繰り返す嗚咽の隙間に言う。
「それに、赤くなかった」
「それは肌色、普通の人間の色だったということですか」
赤いのは返り血かと思ったが、そうではないようだ。A子は口籠った。
「表現できないような色でしたか」
助け舟を出すと案の定、A子は首を縦に振る。
A子には言わなかったが、再び画像に目を向けたとき鏡に映ったB男だという顔が、ぐんにゃりと曲がった。
「次で最後です」
私が画面をスワイプすると、今度の写真は比較的鮮明だった。
狭い台所の流し場をいっぱいに満たしている内臓。赤く濡れ、テラテラと光っていたがその奥には灰色や黄色やピンクが渦を巻いていた。
私はただの怪談好きのライターだ。「視える」わけでもなければ「祓える」わけでもない。この話は、ただそれだけの話だ。
しかし私は、A子を家まで送り届けた。そうしたからといって、何か良くなるようにも思えなかったが、「ビビッときた」からそうしたのだ。
いや、より明確に言うと確かに彼女の後ろに、窓の外に、携帯を向けてぼんやりと立つ男の姿が見えたからだ。
繰り返すが、私にそういった類のものを「視る」力はない。
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