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マイナス地点は水面下
ここに生まれ出たわたしの話である。
しかしそれは、ゼロにすら至っていない話なのである。
わたしは誰にも気づかれることなく、ゆっくりと、しかし確実に「成長」を遂げた。
誰も訪れることのない暗く小さな部屋で、わたしは彼らが残した
かれらが
カレラ?
だれだっただろう?
だれかいた?
「彼ら」は既にわたしの中に溶けてしまい、何も残っていなかった。
それらがわたしを生かした。
わたしはそれらを踏みつけながら、これから歩いていくのだろう。
今はまだ、足下を見るべきときではない。
いつかそのときは来るのだから。
ただの肉の、更に言えばタンパク質・アミノ酸・DNA・原子・情報の塊であっただけのわたしは、動いていた。
どくどくと体が脈を打っている。
下が冷たい。これはわたしが熱く熱を持っているということである。
辺りは暗い。これは視覚だ。わたしは目を開き、周囲を認識し、思考している。
わたしは、生きている。
この認識は強く強く「生」への執着を生み出した。
つまりは、死にたくないという意識の発生である。
「死」は、このとき既にわたしの横にあり後ろにあり口を拡げていつでも呑み込もうと待ち構えていたのである。
死にたくない。
死んでたまるか。
わたしは口を開き、
「ごほ」
呼吸を始めた。
「死」が少しだけ遠ざかったのを感じた。
そうか、わたしはわたしだけでは生きていられないのか。外から何かを受け入れなければやがて死んでしまうのか。
「人は一人では生きていけない」という言葉があるが、わたしはこの時身をもって思い知った。
ちなみに、この言葉の意味がこの時知ったものとは若干違うと後に思い知ることとなる。
やっとのことで呼吸を始めたわたしであったが、入れ物に満ちているどろどろとしたものが邪魔である。
これはいらない。
いらないのに入ってくる。
邪魔だ。
退(ど)け。
わたしは入れ物を内側から壊した。
そしてわたしは生まれ落ちたのである。
そう、わたしがここに「生まれ」たのは2回である。
1回目は精神的なもの。彼らとわたしは別の異なる存在であると線引きしたとき。
2回目は物理的なもの。すなわち、この入れ物から外の空間へ出たとき。
生まれ落ちた時、わたしは最初に
「ぐえ」
地面に這いつくばった。
重い。苦しい。
下に向かってかかる重力と、周りの空気からかかる圧力。
これに耐えなくては、わたしは、確実に、潰される。
わたしは耐えた。ただひたすら耐えた。
しばらくして、少しだけ楽になったと気づいた。
それでも動くことは出来ずに、這いつくばっていたのだが。
生きるのは大変である。
生命活動を維持するのもやっとであるが、それは意識してのものではない。
生きることを放棄しないよう意識を繋ぎ続けることこそ大変なのだ。
とりあえずはこの空間に存在を受け入れられたわたしであるが、さて、わたしはどうすればいいのであろうか。
わたしは多少息がしづらい気もしなくはなかったが、出来ないこともなかったので体を動かすこともなくそのまま這いつくばっていた。
冷たく濡れた床からは一定の震動だけが伝わってきた。
どれくらいそうしていただろうか。
床から伝わる一定の震動の中に、カツンカツンと違う震動が混ざり始めた。
その震動は徐々に大きくなり、やがてすぐ近くで止まった。
ガチャン
空間に別の空気が流れ込んできた。
空間に穴が開いた場所には、黒い影が立っていた。
影はバタバタと慌ただしく音を立てたかと思うと、外の空間へ向かって大きな音を立てた。
わたしは音を認識している。これは聴覚だ。
だが、その音が何を意味しているかは理解できていない。
わたしの中にはまだ「言葉」「言語」というものが存在していなかった。
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