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マイナス地点は水面下「Rain・Aqualine」
そこへ生まれ出たあの子の話だ。
しかしそれは、まだゼロにすら至っていない話である。
最初から最後まで全てを語ることは出来ないだろう。
我が名はレイン・アクアライン。
親愛なる古の森の友として、約束を果たそうではないか。
今から数年昔。
いや、構想自体はもっと以前からあったようだ。ある一つの研究がされていた。それは我からすれば酷く愚かなものであった。
自分達の力を過信し、更なる高みを望み、ただ犠牲を増やし、その足元に転がる骸に気づこうともせず肉を食い漁っていた。
まだその時は我自身には害はなかった。そう思ったのが甘かったのだ。
ああ、なぜあの時その芽を潰してしまわなかったのだろう。今となっては全て遅く、後悔しか残っていない。
我等にはそうできる力もあったというのに。
あれらは自分たちにとって都合のよい「生物」という名前の道具箱を造ろうとしていた。
幾多の力ある生物の命を奪い、無理矢理一つに押し込めようとしていた。
この世界には禁忌が存在する。
その一つである生命を作り出すということを、あれらは犯そうとしていたのだ。あるはずのない生命を作り出すこと。それは神にしか出来ないことである。
我等は神になりえない。だが、あれらは自分達ならと思ってしまった。
一つができれば次は更によいものを。そのようにして繰り返して罪を犯し、やがて自らが罪を犯しているという意識さえ麻痺していく。罪の自覚がなければ罰を与えることは出来ない。止まることなく罪は重ねられていったのだ。
気づかぬうちにその研究は形を成し、あとは容れ物を用意するだけとなっていた。その一つとして、あれらは目をつけてしまった。
深い森の加護を受けた、美しい一人のエルフを。
彼は我の愛しい親友だった。
器のオリジナルとして十分すぎる要素を持っていた彼。
彼はある日、森から姿を消した。
彼を知っている者は皆、持てる力を駆使して探した。
我は知っていた。
彼は生きている。
彼が死ねば加護する森も生きてはいない。森が死ねば彼も生きてはいないのだが。そして、既に彼はこの森にはいない。エルフが加護を受ける森で負けるはずはないのだから。
我等は森の外を探した。持てる力全てを使い探した。しかし、見つからない。
時間はまだある、はずだ。
まだ森は生きている。
誰しもが思い、信じていた。
彼はここへ戻ってくる。戻ってこなければならないのだ。
森の時間が止まっていたことに、誰も気づいてはいなかった。
彼を見つけたのは、それから10年も経っていた。
とき ことを我は思い出 たく い
彼が にを れたか
どん がたで発見 れた か
あれらが彼 を た か
ああ、 くい くい
と り いるあれもお じ気持ちだろう
ああ、 くい くい
もでき かった 我等のことも
いっ べて かったことに ずめて まおうか
あれらは ては ら い禁忌を犯 た
ー雑音が混じるー
ー煩い雨音に、書き消されるー
ー考えたくないー
ーもう、何も知りたくないー
在るべき森へと戻ってきた彼は、何事もなかったかのように他の者たちと接している。我等もあのことについては何も触れない。
以前と何ら変わらない毎日。
そんなはず有り得なかったのだ。
森は再び時間を刻み始めた。彼の負った傷は再び紅い血を流し始めた。
森と彼の時間はほぼ等しい。森の時間が止まったこと、それは彼が自らしたことだったのだ。
自分自身を守るために。
彼は自らの価値を知っていた。何かしらの加護を受ける者、特にエルフなどは加護を受ける代わりにその場所を治める役目が発生する。当然、彼もこの森を治めていた。その彼が死に、森も死ねばどうなるか。森に住む者たち全てが棲みかを追われるのだ。そして、森と彼自身が与えていた恵みをそっくりそのまま手離すこととなる。
恐らく、何の対策も無しになくなれば半分は死に絶えるだろう。それだけ彼の与える影響は大きく、価値がある存在だったのである。だからこそ、彼は時間を止めてまで自らを守り生き延びようとしたのだ。たとえそこに彼の意志がなくとも。
彼を見つけ腕に抱いたとき、安心したように呟く彼の声が耳から離れない。
「森はまだ無事なのですね」
無事じゃないのはお前だ。
我は、友として何よりも彼自身の命を大事にして欲しかった。
幾度傷つけられようと血を流し、あるいは痛みそのもので死なないため全てを停止し一旦回避したはずのその傷たち。それらが、時間が動き出した今、再び彼を襲い始めたのである。
彼はただ堪え、傷が自然と塞がるのを待った。我等もまた、それを見ていることしかできなかった。
彼が幾日かに1度、森の外へ出るようになったのはそれから数ヵ月経ってからのことである。あんなことがあったので、我も共に出掛ける。初めて彼が出掛けると言った日、我は違和感を感じた。
彼はこう言ったのだ。
「懐かしい後輩に会いに行く」
と。
この世界においての成り立ちやルール、仕組みは今は省いておこう。しかし、彼がエルフ「となった」ように我も今の状態の我に「なる」までそこそこの時間を用いた。彼が言う後輩とは、恐らくエルフとなる以前の付き合いなのであろう。はたしてそのような存在がまだこの世界にいたであったどうか。
彼が向かったのは、驚くことにあの日彼が発見された建物によく似た場所であった。そして、待っていた後輩という者もまた彼を傷つけていた者たちと似た身なりをしていた。
しかし、違ったのは子どもを連れていたことである。
奴は我に名を名乗らず、「博士」と呼ばれていると言った。子どもは幼いながらも強い目で我を見、名を名乗った。
「おれは、ノイズ。博士の子だ」
これが我とあれの出逢いである。
まさか、これとの付き合いがあれほど永くなるとは露ほども思っていなかった。しかし、その後の付き合いがどれ程永くなろうがこの時点ではただの子どもであった。
我らは日が昇っている間、様々なことを話した。そして、大体いつも時間が半分ほど過ぎた頃に彼は一人で建物の中に入り、帰る頃になると出てくるのだ。
建物からは、昔彼がよく聴かせてくれた歌声が微かに聞こえている。
博士は我に頭を垂れてこう言った。
「あそこには、あの研究の結果がいる」
「ある」のではなく「いる」と言われたことで、あの日の悪夢が蘇る。
あれらが犯した禁忌の種はこの世界に生まれ落ちてしまったのか。
我は彼に問う。知っているのか? と。何をとは言えなかった。彼は我に何も言わなかった。ただ、
ただ。
知っているよ、知っているんだよ、だから何?、僕には何もできない、あの子の為にも自分の為にも何もできないんだ、でもせめて気づいて欲しい、僕がここにいると気づいて欲しい、ねえ
「ねえ、レイン。
僕はどうしたらいい?」
彼は泣き笑いの表情で我を見つめた。
彼も、我も、酷く不器用であった。あの日の悪夢を抱え続け、不安を打ち消す希望さえ見出だすことができずにいた。その中で転がってきた現実。どれ程彼の足下が揺さぶられたか。彼に全てを抱えさせたつけが我に降りかかってきたのだろう。こんなもの、たった一人が抱えるものではない。
「研究の結果」がどの様な姿をしているかさえ我らには知り得なかった。ましてや、我にはその扉を開く勇気さえなかったというのに。
今日も彼の歌声が響く。
生まれ落ちたその命に、この歌声は聞こえているのだろうか。
何度目かのとき、博士は我にこう呟いた。あの子はとても彼に似ている。と。あの子を見たことがない我には返事を返すことなど出来る筈がない。
今は出来なくとも、いつかは彼に似たあの子に逢えるだろうか。
今日も彼の歌声が響く。
我らは気づかなかった。炎を宿す一対の眼が我らをどの様に見ていたのかを。
ある日、突如その小さな建物、研究所は赤黒い炎に包まれた。
その日、彼の歌は届かなかった。
小さな研究所にあったはずの小さな幸せは、いとも簡単に炎の中へと消えてしまった。
小さな研究所に火を放ったのは誰だったのだろうか。
我らは博士とノイズ、そしてあの子を炎が舞う研究所であった場所から連れ出し、彼の森へと誘ったのである。
これは、あの子の話ではあるが、まだゼロにすら至っていない話である。
最初から最後まで全てをとは叶わないだろうが、親愛なる古の森の友として出来る限りを語ろうではないか。
それが、彼との約束なのだから。
我が名はレイン・アクアライン。彼の友、森のエルフを今は何と呼ぶべきであろうか。
彼は。
彼は、かつてミントと我らが呼んだ友は。ただの一人のエルフであったはずなのだ。
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