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薬室の入り口に垂れている簾が微かに動いて、一瞬、風が入って来たのを空は感じた。
顔を上げて振り向くと、豊かな髪を波立たせた美しい人が立っていた。
「こんな夜中にどうしたの、蘭?誘いに来た?」
冗談めかして空が言う。
蘭は微笑んで、薬室をぐるりと見回した。
「変わってないわね」
「蘭が綺麗に整えてくれていたからね。変えない方が、使いやすかった」
空がいない数年間、蘭は織師でありながら、父親の薬師の仕事も手伝っていた。
薬師の修行をしたわけではないが、子どものころから薬師の仕事が好きで父親を手伝っていたので、薬草摘みや基本的な作業は難なくこなした。
村人からも薬師助手として頼りにされていたが、空が帰って来ると、あっさりその立場を明け渡し、薬室には二度と来なかった。
おかげで空は、村人からだいぶ嫌味を言われたものだ。
「昂をガザに連れて行ってくれるって?」
突然言われて、空は蘭を見返した。その目は怒っているようでも、喜んでいるようにも見えなかった。
「ついでだからね。生業で迷っているようだから」
「何か言われたの?」
かぶせるように言われて、空はため息をついた。探りに来るかなと思ったら、直接聞かれた。様子見も何もあったもんじゃない。
「言われてないよ。でも、知ってる。だから、ガザに行った方がいいんじゃないかって思ったんだよ」
「……」
蘭は無言で空を見つめた。瞳は空に向いているが、恐らく意識は蘭自身の中に向いているだろう。
しばらくして、ポツリと言った。
「うまくいかないものね」
「何が?」
「針森に帰って来て、信と結婚して、三人子どもが生まれた。その事実で、すべてがうまくいくと思った」
「昂が村を出るかもしれないから、うまくいかなかったと思うの?」
空は作業に戻り、手を動かしながら言った。
「蘭だって、柳と青さんの子どもでしょ?それで、自分の家族は失敗だったと思うの?」
そう言う空に、蘭は笑って首を横に振った。
「そうね、ごめん、混乱してた」
「大丈夫だよ。昂だって、蘭と信の子どもだ。昂がどういう人生を送っても、それは変わらない」
それに……と空は続ける。
「みんながみんな、村の生業につかせるのは、もう限界に来ていると思うんだ。村の外に世界が広がっているのを、みんなもう知っている。外もみせてやらなきゃ」
蘭は空に向けて頭を深く下げた。
「ありがとう。昂をよろしくお願いします」
空も作業を止め、蘭に向かってきちんと姿勢を正す。
「はい。承りました」
空がそう言うと、蘭は気が済んだようだった。簾を上げて出て行こうとする。
「あれ?せっかく夜中に来たのに、泊っていかないの?」
空が慌てて、蘭を引き止めに行く。
「ごめんなさい、年下は趣味じゃないの」
ニッコリほほ笑む蘭に、空は口を尖らせた。
「……俺、アラン大公と同じ歳だけど」
蘭はまじまじと空を見た。
「……空、いい人いないの?結婚すればいいのに」
空は掴んでいた蘭の腕を放した。面白くなさそうに、ため息をつく。
「結婚しちゃったら、気軽にあっちに行けないからさ」
遠い目をする空に、蘭も内心ため息をついた。この子もやっかいな恋をしているな。
世の中ままならないことの方が多い。
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