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「蘭、久しぶりー」
陽気な声がして、誰かが織小屋に入ってきた。蘭は染色の桶の方に目を向けたが、そこには誰もいなかった。先ほどまで寧がいたのだが、疲れてしまったのか、姿はなかった。
蘭はほっと息をつくと、遠慮なく侵入してきた旧知の男を軽く睨んだ。
「寧がいなくてよかったわ。まだ不安定なんだから」
男はごめんと、手を顔の前で合わせる。
「蘭に会えると思って、嬉しくって」
男は、機を織っている蘭の隣に腰掛を引っ張ってきて、座った。
「買い付けに来たの?」
蘭が聞くと、男は心外なという顔をする。
「これでも、商売に関しては、真面目にしているんだよ。買い付け以外の用件で、ここには来ないよ」
軽い調子の男に、蘭は思わず顔を綻ばせる。全く、この男も、この男の父親も、針森に来ると性格が変わるらしい。
「じゃあ、さっさと用事を済ませて帰りなよ、キース」
また別の声がして、キースと呼ばれた男はゲッと声を漏らした。
「村に着いて、すぐここに来たのに。早いね、信」
嫌そうにキースが戸口を振り返る。そこには蘭の夫である、信が立っていた。
信はにやりと口を歪めて、笑う。
「嫌な予感がしたんでね、ここに寄ってみたんだよ。小屋の外まで、不穏な空気が立ち込めていたよ」
「やだなぁ、買い付けに来たんだってば」
で、と信も腰掛を持ってきて、腰を下ろす。
「あっちは、どう?」
そう促す信に、キースはやれやれと首を振った。もう少し、蘭との逢瀬を楽しみたかった。しかしこの男に逆らうと、自分が危ない。
信とも昔馴染みであるキースは、手先の器用なこの男が、いろいろな面において、恐ろしい男であることを知っていた。
「あまり、よくない」
キースは観念して、任務を果たすことにした。
「やはりまだ、大公は太陽神の加護を受けていない、という連中は多い」
キースは指を折ってみせる。
「まず、太陽王の称号を自ら失ったこと。二つ目は、神聖な太陽国をガザに売ったこと」
昔、太陽国は太陽神を崇める神国として成っていた。この頃は、他国との交流を一切断ち、鎖国状態であった。二十年ほど前、隣国の大国ガザに侵攻され、太陽国はガザの属国となった。それでも、それほど血が流れず、自治権まで獲得したのは、現在まで大公を務める、当時の太陽王の功績だろう。その大公の名をとって、現在ではアウローラ公国と呼ばれている。
長年の鎖国と脆弱な産業、そして麻薬カエルムの蔓延と、多岐に渡って疲弊した国を、ガザ帝国の援助を受けながら、少しずつでも回復させてきたのは、大公の賢策あってのことだ。
しかしやはり二十年もたつと、抑え込んできたものから、ひび割れ始める。豊かになってきたものを、最初は喜んで感謝をしても、次第にそれが当たり前になってくる。しかも、いつも良い時ばかりではない。停滞もすれば、下降もする。
かつて隆盛を誇っていた、太陽神の熱狂的な信者たちは、縮小された神殿の中から、呪詛のように言い出した。
太陽神を蔑ろにするから、この国は太陽神の加護を失った。その証拠に……
「太陽王の印を持つ者が生まれないではないかってね」
キースはそう話を締めくくった。
太陽王の印というのは、金髪である。現大公、元太陽王アウローラは金色の髪の持ち主である。まだ太陽国であった時、金色の髪こそ太陽神の息子の印であるとして、王になるには絶対条件であったのだ。事実、太陽国では、王家にしか金髪は生まれなかった。
もちろん、ガザや他の国では金髪は特殊ではない。それをふまえて、アウローラは金髪こそ太陽神の生まれ変わりであるという因習を廃止した。
「もう王でもないのに」
蘭はつぶやいた。
実はアウローラが王だった時期は、一年にも満たない。後の二十年はずっと大公として、国を支えてきた。
太陽神の加護云々を言われる筋合いはないはずだ。
「理屈じゃないんだろう。連中は、言い出せる時期を見計らっていたということだ」
信は冷めた口調で言った。
「わたしには、もう関係ない。でも……」
蘭は考え込むように、じっと目を閉じた。
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