Ⅰ 孵化

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 ザシュッ  空の放った短剣は、空気を切り裂いて、まっすぐ野ウサギの(くび)に命中した。 「すっげぇ」  昂は興奮して駆け寄り、痙攣している野ウサギに止めをさしてやった。 「俺は狩りをしに来たわけじゃないんだけど」  渋い顔で空が、文句を言う。 「分かってる。分かってる」  昂はそう返しながら、笑顔で振り返った。  空の身体能力はずば抜けていて、特にナイフの技術はピカ一である。この村では子どものころから狩りを仕込まれるので、皆それなりに腕はあるが、短刀を投げて獲物を仕留めるといった芸当は、専門職の狩師でもなかなかいない。  昂はそれを見せてくれとせがんだのだ。  空はだいぶ渋ったが、昂のしつこさに辟易し、やると決めたら早かった。前方を横切った野ウサギが、目をかすめたと昂が思った瞬間、短刀は投げられ、獲物は仕留められていた。 「どうして狩師にならなかったの?」  何万回言われたか分からない質問を昂からされて、空はため息とともに回答した。 「狩りに興味がなかったから」  それに……と続ける。 「薬師がいなかったら、困るだろ?蘭も(りん)も継がなかったから」  自分の母親の名前が出てきて、昂は首をすくめる。自分には何の咎もないのに、何となく後ろめたい気持ちになる。  そして、もう一人の名前。凛。  母の妹であったらしい凛という人は、大人になる前に村から出て行ったらしい。  らしい……というのは、蘭をはじめ、家のだれも語らないからだ。凛という存在も、よその大人の昔話の中で、ひょっこり出てきて知ったに過ぎない。いま、空が口に出したように。  それゆえに、その存在はあやふやで、何かに宿る神さまのようだと昂は感じていた。  そういえば、空も十年ほど、村から姿を消していた。 「ねぇ、空」  空に話しかけようとすると、空は森の先の方を指さした。 「ほら、(せい)さんたちがいたよ」  見ると、確かに空の師匠であり、昂の祖父である青が、岩のくぼみに張りついていた。その横では、陽が興味ぶかそうに青の手元をのぞき込んでいる。 「おい」  夕の姿が見えないことに気が付いて、昂は急いで陽の許に駆け寄った。 「夕はどうした?」  怖い顔で問う兄に、陽は焦る様子もなく、答える。 「その辺で鳥射ちしてるはずだよ」 「二人以上で行動するのが基本だろうが」 「してるよ、ほら」  耳を澄ますよう陽が促すと、確かにシュッと矢を放つ音が聞こえてきた。 「覚えたての弓を使いたくて、仕方がないんだよ」  それでもそわそわしている兄に、陽は呆れたように言った。 「そんなに心配なら、昂が夕を連れて行けよ」  痛いところを突かれて、昂はバツの悪い顔をする。  そんな兄弟を見て、空はニヤニヤしていた。 「ほら、見ろ、陽」  青が急に声を上げ、くぼみに注意を向けさせる。そこには苔がびっしり生えていて、その苔が発光しているように揺らめいた。 「へぇ、ヒカリゴケ」  空が面白そうに言う。 「綺麗だね」  陽は感動したように言った。昂の存在など忘れたかのようだ。実際、ヒカリゴケの妖しい光は、昂の目も引いた。これは食べられたり、薬になったりするのかと聞くと、青は苦笑した。 「残念ながら、食べられないし、薬にもならない。人の役に立たなくては駄目かな、昂?」  祖父の問いに、昂は決まり悪そうに首を横に振った。 「いや、駄目じゃないけど……」  興味深そうにヒカリゴケを見つめている陽に、青はそばにあった薬草も教えている。  この草は毒の持つ植物と形が似ているから、注意するように。花は違うから、花が咲く時期の方が見分けがつく。云々。  大人にもなっていない弟に、薬師見習いに修行をつけるように教える祖父を見ながら、昂はため息をついた。 「どうした?」  青が見とがめて、眉を寄せた。 「いや……」  言いよどんでから、気を取り直して話そうとした時、陽が急に割り込んできた。 「俺、薬師になりたいなぁ」  昂も含め、皆が陽を見た。陽が薬師の青に特に懐いていることも、草花が好きなことも皆が知っていた。だからこの発言は、だれも意外に思わなかった。空は結婚もしておらず、子どももいない。後継ぎがいないので、陽のこの意向は、皆万々歳だろう。  本人にとっても、村にとっても、しっくり収まる。  宙ぶらりんになった昂に、陽は笑顔で訊いてきた。 「昂は何になるの?」  その笑顔は父親である信によく似ていた。  分からない……と答えようにも、言いにくくなった昂が再び黙っていると、夕の元気な声が聞こえてきた。
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