雨が連れてくるもの

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雨が連れてくるもの

   窓の外から染みこんだ湿気が、体にうっとうしく纏わりついていた。  くたびれたシャツの袖を捲り上げ、俺は湿気の中を泳ぐようにふらふらと歩いた。六月の半ば、梅雨は例年通りこの国を濡れ鼠にしている。窓を叩く雨音に倦怠感を覚えながら、俺は歩きなれた校内を進んでいった。  雨は嫌いじゃない。だけど、少しだけ憂鬱を連れてくる。それは通学中のバスで感じる息苦しさだったり、昼間にはペタリと潰れてしまう前髪だったり、右手に握る味気ないビニール傘だったり。小さな苛立ちがたくさん俺を付け回すからだろう。  その例に漏れず、この雨もまた少し俺を憂鬱にしていた。いつもは見ないふりをしている感情が、今日はやけに胸の内を渦巻いている。湿気よりも鬱陶しい。  いつのまにか高校を卒業するまであと一年を切ってしまった。迫りくる受験の波に怯えながら、俺は底知れない不安を抱えていた。そしてそれは恐らく人から人へ伝播し、学年全体の雰囲気を重苦しくしている。  ――仕方がないことだ。何が不安なのかさえ、俺たちには分かっていないのだから。  やがて所属している文芸部の部室にたどり着き、俺はドアに手を掛けた。力を入れると抵抗なくドアは開き、中に先客が居ることを知らせてくれる。   見慣れた部屋の中には、女子生徒が一人だけ椅子に座っていた。頬杖をつき机に向かっている彼女。艶のある黒髪が高い位置で結ばれ、肌の白さを浮き彫りにさせている。  彼女は気だるげに視線を上げて俺を見ると、口元だけを小さく動かした。 「おつかれ」 「ああ。おつかれさん」  俺は机に鞄を下ろすと、ガタつくパイプ椅子に体を投げた。小さな部屋の中は空気がこもって蒸し暑い。窓際でぎこちなく回る扇風機も力不足だ。俺は額から流れる汗を拭った。 「せっかく貸し切りだったのに」  彼女――菅野結衣は意地悪そうに口角を上げる。菅野の少し火照った肌の上にも、うっすらと汗が浮かんでいた。俺はそれを眺めながら「別にいいだろ」と言葉を返す。 「傘忘れたんだよ。雨宿りさせろ」 「あれ、藤井も? 私もそう」  菅野は窓の外に視線をやった。分厚い硝子を隔てた向こう側からは、時折楽しそうな笑い声が聞こえてくる。歩く人々の傘が疎らになっていて、時期の過ぎた花畑みたいだなんてぼんやりと考えた。暑いと思考も溶ける。 「遠くで笑ってる人たちってさ、なんにも悩みが無いように見えるよね」  独り言のように呟く彼女の前には、一枚のプリントが広げられている。それを確認して俺は小さく息を吐きだした。まだ何も記入されていないそのプリントは、俺の鞄の奥底にも押し込まれている。  進路希望届。 「ほんとはあの人たちだって、一人のときには落ち込んでるかもしれないのに」  菅野の平坦な声が床に落ちる。そうだな、と小さく返事をして、俺は椅子に座りなおした。金属の擦れる嫌な音が響く。 「だいたいの人間は悩んでるよ。多かれ少なかれ」  俺の言葉に菅野はこちらを見て、「そうだね」とため息のように漏らした。
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