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私は息も絶え絶えに、最終電車間近の人気のない駅へ滑り込んだ。スマホをかざして改札を抜けると、いち早く電車が到着するホームへの階段を必死に駆け上がった。
そこには客もまばらな、見慣れた駅のホームがあった。そこでは間もなく電車が到着するというアナウンスが流れている。私は両手を膝に置き、乱れる呼吸と早鐘を打ち続ける心臓を何とかしようと努めた。
「あの……」
そのとき、私の背後から男の声がした。振り返るとそこには、スーツを着た若い男が立っていた。そしてふと男の手元を見やると、私は思わず頭が真っ白になった。
その男は手に小型のナイフを持っていたのだ。向けられた冷淡な白銀の刃は、私の血を求めて妖しげな光を放った。
額から一気に冷や汗が噴出す。この男こそが、悪魔によってもたらされた、私を死に追いやるための使者なのだ。そう確信した。
「来るな……来るな……!」
私はかぶりを振り、うわごとの様にそう呟きながら、男との距離をとるためにゆっくりと後ずさりしていく。
「いや、でも……」
しかし男もまた私との間合いを詰めるようににじり寄り、ナイフをこちらに突き出してくる。
「来ないでくれ!」
私が大きく一歩、後ろへ右足を引くと、目の前の男があっと声を上げた。
その瞬間、先ほどまで右足にあった地面の感覚が突如なくなり、大きく身体のバランスを崩した。そのままなす術もなく、仰向けの状態で線路に落下していく。私はそのときのことを、まるでスローモーションのように体感していた。
目の前の男が持っていた物はナイフなどではなく、私のスマホだった。彼は私が落としたスマホを拾って届けようとしていたのだ。私が先ほどまで見ていたものは、すべて寝不足による白昼夢が見せる幻だったのだ。
今まさに駅に到着しようとしている電車のヘッドライトが、落下していく私の身体をまぶしい位に明るく照らし出していた。できたシルエットは、くしくも妻による呪いの舞いのそれに似ているような気がした。
目の前の男が手に持つ私のスマホのホーム画面に表示されていた時計の時刻は、この瞬間にちょうど午前零時を示したのだった。
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