5人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
野球帽男
電車は走り始める。
車両間をつなぐ連結部のドアが開き、擦り切れた野球帽をかぶった初老の男がよたよたと入ってきた。薄汚れた作業着姿で、ポケットに両手を突っ込んでいる。脇には四つに畳んだ新聞を挟んでいた。彼は手すりに引っ掛けられたビニル傘を見ると、目だけでその周囲を伺った。誰も近寄らないその傘は、明らかに忘れられたものだ。そう判断した野球帽男は、そのビニル傘を迷いなく手に取った。
「へへ、ツイてるぜ」
野球帽男は黄ばんだ歯を見せてにたっと笑い、次に止まった駅で傘を持って降りて行った。
野球帽男がビニル傘を差して向かったのは、場外馬券売り場だった。
彼が脇に挟んでいたのは競馬新聞。
今日は、彼にとって大事なレースがある日だった。
「今日はツイてるっぽいからな、へへへ……」
男はそう言いながら売り場へと向かう。
中にはすでに大勢の人が入っていた。
野球帽男もビニル傘を閉じて、迷いなくその人の群れの中に入って行った。
しばし時が流れ、場外馬券売り場では歓声や悲鳴、怒声などが一通り飛び交った。
ほくほく顔がいれば、悲壮感に満ち満ちた顔もある。
野球帽男は悲壮感に満ちた部類の顔だった。
その手からはビニル傘もいつの間にか消えていた。
だが、彼にはもうそれを気にする余裕もないらしかった。
呆然とした表情のまま野球帽男は雨の中に歩き出し、どこかへと去っていった。
最初のコメントを投稿しよう!