野球帽男

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野球帽男

 電車は走り始める。  車両間をつなぐ連結部のドアが開き、擦り切れた野球帽をかぶった初老の男がよたよたと入ってきた。薄汚れた作業着姿で、ポケットに両手を突っ込んでいる。脇には四つに畳んだ新聞を挟んでいた。彼は手すりに引っ掛けられたビニル傘を見ると、目だけでその周囲を伺った。誰も近寄らないその傘は、明らかに忘れられたものだ。そう判断した野球帽男は、そのビニル傘を迷いなく手に取った。 「へへ、ツイてるぜ」  野球帽男は黄ばんだ歯を見せてにたっと笑い、次に止まった駅で傘を持って降りて行った。  野球帽男がビニル傘を差して向かったのは、場外馬券売り場だった。  彼が脇に挟んでいたのは競馬新聞。  今日は、彼にとって大事なレースがある日だった。 「今日はツイてるっぽいからな、へへへ……」  男はそう言いながら売り場へと向かう。  中にはすでに大勢の人が入っていた。  野球帽男もビニル傘を閉じて、迷いなくその人の群れの中に入って行った。  しばし時が流れ、場外馬券売り場では歓声や悲鳴、怒声などが一通り飛び交った。  ほくほく顔がいれば、悲壮感に満ち満ちた顔もある。  野球帽男は悲壮感に満ちた部類の顔だった。  その手からはビニル傘もいつの間にか消えていた。  だが、彼にはもうそれを気にする余裕もないらしかった。  呆然とした表情のまま野球帽男は雨の中に歩き出し、どこかへと去っていった。
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