スーツ男

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スーツ男

 人でごった返す場外馬券売り場のマークシート記入台で、せっせと購入の準備をしていたスーツ姿の男は、はたと脇を見て首を捻った。  こんなところにビニル傘なんてあっただろうか。  持ってきた覚えはないが、誰かが取りに来る気配もない。  外がどんよりとした曇りであったことを思い、一応持っておくことにした。  杞憂に終わるなら、どこかに捨てて帰ればいいだけだ。  彼はそこそこに用心深いつもりの男だった。  今日も妻には仕事と言って家を出てきている。だからスーツ姿なのだ。  だが実は、浮気相手と会う約束をしている。  その前にここに来たのは、時間潰しと、あわよくばデート代を稼ぐためだ。  彼の小遣いは少なく、かといって、クレジットカードは明細が自宅に届くから使えない。  今のところ妻が浮気に勘付いた様子はない。  わざわざ怪しむきっかけを与えるのは愚かな事だ。  で、辿り着いたのがここだった。たまたま目についたともいう。  雨が降り出したのは、スーツ男が駅に着いたまさにその時だった。  どうやら今日の自分はツイているらしい。  彼の予想は大当たりし、懐は十分に潤っていた。  電車は空いていた。  ベンチシートの真ん中に足を広げて座っているアロハシャツ姿の金髪男が一人いるだけだった。  彼はしきりに窓の外を見ては舌打ちをしていた。  近寄りたくない、と思ったスーツ男は、少し離れたベンチシートの隅っこに腰を下ろした。  ビニル傘を手すりに引っ掛け、電車に揺られながら彼は考えていた。    何時までもこんな状態じゃいられない。  自分は一体どっちを本気で愛しているのか、決断をせねばならない。  目を閉じて脳裏に浮かぶのは、決まって浮気相手だった。  少し化粧は濃いけれど、話が面白くて一緒にいて楽しいのは彼女だ。  それに、ベッドでの相性も、妻よりは良いように思える。  だが、浮気相手を選べば慰謝料の支払いは免れない。  金か愛か。今の彼にとって、重要なのは校舎のように思えていた。 「八木花町~八木花町~。出口は左側……」  アナウンスの声でスーツ男は我に返った。  スーツ男は席を立ち、そのまま電車を降りて行った。
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