トイレの王子様

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 あの明るい空間はいったい何だろう。当初、職場のトイレの窓から向かいの高層ビルを眺めるたびに俺が思っていたのはそんなことだった。  俺の仕事場は雑居ビルの七階にある。社長は一応自社ビルなのを誇っている。要するに本業が思わしくないときはテナント料でどうにかやりくりしている中小企業――いや零細企業だろう。実際、立地は悪くない。おかげで周囲にあった小さな雑居ビルはいつの間にか再開発され、建て直されて、高層ビルばかりになってしまった。  七階のトイレからは裏通りをはさんで昨年建った高層ビルがよくみえる――というか、俺の会社の方がその、新しくて外壁もガラス張りのピカピカしているそのビルに見下ろされている。こちらから見えるのはスクリーンで隠されているオフィスの窓ばかりだが、数階おきのビルの角のところには、夜になると黄色い電灯に輝かしく照らされた、スクリーンもブラインドもない空間があらわれる。  なんとも眩しく、輝かしい。  大げさかもしれないが、こっちのトイレは青白い蛍光灯に照らされた辛気臭い場所だから、なおさらそう思うのだった。何しろ残業明けにうっかり鏡を見ようものなら、ゾンビのようにげっそりやつれた自分が見返しているのである。  その明るい空間の謎はしばらくあとになって解けた。消防署の指導が入って会社の屋上にあった喫煙所が撤去され、残業のあと俺がそこでコーヒーを飲むようになったからだ。  屋上からは、道路をへだてた高層ビルはもっとよく見えた。明るい空間は三階ごとに設置されている。まれにガラスのすぐそばに人影が見えることがあり、だから休憩所か喫煙所だろうと俺は想像していた。どちらにしても、暗い屋上のこちら側とはたいしたちがいだ。  ある日そのビルの、俺のいる屋上からいちばん近い階にある「明るい場所」に、誰かが立っているのが見えた。人間がいるのをめったにみないのもあり、俺は缶コーヒー片手にガン見してしまった。いたのはスーツの男である。後ろ姿だけでも、なんというかシュッとした立ち姿だった。  とはいえ最初は「こいつ何をしているんだ?」と思ったのである。俺には背を向けていたとはいえ、両腕を広げたりする仕草に最初、ラジオ体操でもしているのかと思った。俺は好奇心のままにしばらく観察し、やっとその場所が「トイレ」だと気づいた。トイレの洗面所だったのだ。スーツの男は鏡に向かっていたのである。  へええ、すごいなあ――と俺は思った。一面がすべてガラス張りとはずいぶん眺めのいいトイレ、というか洗面所だ。俺は立ち上がって階数を数え、ふむふむ、九階かな、などと思った。九階というのは高層ビルのなかでこそ低層階かもしれないが、それでもこっちの屋上を見下ろす高さである。ここから見える姿はスーツの背中だけとはいえ、腰回りや背中など、スタイルが全面的にイケメンだ。そう思ったときイケメンが方向を変えた。もうひとりあらわれたのだ。今度もスーツだ。イケメンよりでかい。  ん?  俺はまたもガン見した。何をやっているんだ、あのふたり?  俺は目がいい方だ。だからよく見えてしまった。スーツの男――スーツの男がふたり――あれはその――抱擁していないか? その――顔が重なってて――  それが最初だった。  断っておきたいのだが、俺はわざわざ見ようとしたわけではない。たまたまなのだ。たまたま見てしまう。その向かいのビルのトイレに出没するスーツの生活リズムというか、休憩リズムというか、何かが俺と一致しているのかもしれない。翌週も残業上がりに屋上で休憩しているとき、俺は同じ男――スーツのスタイルイケメン――ともうひとりをみた。その翌週も。最初はスタイルイケメンが明るい空間にいて、鏡の前や窓の近くをうろうろしている。つぎに肩幅のひろいスーツがやってきて、スタイルイケメンと抱擁する。  スタイルイケメンは俺より若い男だ。あれはきっと二十代だな、と俺は思った。背中や腰回りが細くて締まっているからだ。たとえ若いころはやせ型であっても、三十代も半ばをすぎたおっさんになってくると肩から背中にかけてよけいなぜい肉がついてくるのが常である(検証元は俺)。一方もうひとりのでかい方は、もともとスポーツでもやっていてガタイがいいのかもしれないが、年齢は測りかねた。  ともあれこの二人組はこのトイレで定期的に――週二回ほど?――逢瀬を重ねているらしいのだった。俺と同様に残業後の逢瀬らしい。  こんなの、下世話なのぞき見だ。悪趣味なのはわかっていたのに、俺は目をそらせなかった。独身のおっさんというのは困ったものである。何しろ暇なものだから、くだらないことを考えてしまう。彼らがトイレでひっそり会っているのは、男同士というのもあるだろうが、もっとましな場所で会えない理由もあるのかもしれない。たとえば片方が既婚者とか……?  そんなことを俺は勝手に想像し、他人事ながら大変だなあ、などと思った。女性との不倫も大変だろうが、男同士となるともっと障害が大きいだろう。  まあでも、いいんじゃないの。これも人生よ。  最近そっち方面にすっかりお留守の俺はそんなことを思いつつ、ずずっと缶コーヒーをすすった。男同士が抱擁していようがキッスしていようが俺には関係ないことだ。だからどうということもなかった。  ところがその後しばらくして、雲行きがあやしくなったらしい。というのも、スタイルイケメンが待ちぼうけするようになったからである。  仕事はまったく暇ではないのだが、残業後の屋上の息抜きは貴重なもので、俺はあいかわらずスタイルイケメンの逢瀬をときどき眺めていた。向こうは外から見られているとはまったく思っていないらしいが、俺はあいにく目がいいのである。  気候のせいか、最近のスタイルイケメンはスーツの上を着ずにシャツ姿だったりもして、またそのシャツの裾がぴしっとしていないこともあったりして(くりかえすが俺は目がいいのだ、学生の頃はアフリカのサバンナで狩りができるといわれていた)そんなとき俺は洗面所にあらわれる前の彼についてついついゲスな想像もしていたのだが、そんなスタイルイケメンが、ひとりでガラス窓から外を(つまり俺がいる屋上の方を)眺めたあげく、いなくなる、ということが何度かくりかえされた。  これは――と俺は思った。このころの俺は完全に、恋愛ドラマでも鑑賞するような気分で高層ビルのトイレを眺めていたので、さては新しい展開がはじまったのか――と思ったのである。  それにしても、ガラス窓からこちらをみているスタイルイケメンは、顔も相当なイケメンのようだった。そう気づいた俺は心の中で彼を「不幸な王子様」と呼びはじめた。悪口のつもりはなかった。イケメンの主人公には多少不幸な雰囲気があるくらいがドラマとしては面白い。とはいえ、あのガタイのいい彼氏はどうなったんだろう――と思っていたある日、急展開が起きた。  その日、俺はいつもと同じように暗い屋上で缶コーヒーをちびちび飲みながらぼうっとしていた(残業のあとはいつもそうなのだ)。眼をあげて向かいのビルを眺め、明るい場所にいつもの王子様がいるのをみつける。彼はガラスの方向をみて、俺と同様ぼうっとしているようだった。今日も待ちぼうけなのだろうか。  と、その時王子様がふりかえった。肩幅の広い男の影があらわれる。  おお、復縁したか――と俺は完全な野次馬根性で眺めていた。良かったなぁ。やっぱり不幸な王子様よりも幸福な王子様の方がいいからなぁ、人間。  と思ったとき、王子様と肩幅の男は向かい合った。ふたりとも距離をとっている。  俺は眉をしかめた。実をいうと個人的にこういうシチュエーションにはなじみがあった。だいたいはまあ、口論だ。ネチネチと続き、不毛でどちらも納得しないタイプの。王子様はやっぱり不幸なままか……ため息をつきそうになったとき、イケメンの背中が揺れた。  え?  俺は我知らず缶コーヒーを握りしめた。あいにく目がいいので、見てしまったのである。肩幅の広い男の手があがったのを。王子様の背中がガラスにあたっている。ガラスにもたれているのか、どうなのか。見ているうちに肩幅の男は俺の見える範囲から消えていった。  おい、おい!  俺は思わず立ち上がった。暴力はいかん! いけませんよ!  しかし向かいのビルの窓の中でスタイルイケメンはガラスに背中をくっつけたまま動かない。頭の位置が変だ。彼は立っているのではなく、床にいるんじゃないか? 俺は不安になった。大丈夫なのか? 警察に通報するべきか? でも……?  迷ったのは一瞬だった。俺は屋上を駆けだした。幸い俺の会社のエレベーターは俺が屋上へ来たときのまま最上階に止まっていた。俺は地上へ下りると裏通りを横切り、隣のビルの正面へ回った。  この手の新しいオフィスビルはIDカードがないと入れなかったりするものだが、天の采配か、ビルを出る数人のグループのおかげでタイミングよく自動ドアがひらいた。俺はエレベーターをさがす。九階。  エレベーターの中で一瞬正気にもどった。俺はいったい何をしているんだろう。まあでも――と考え直す。王子様がトイレにいなければ問題はなかったということだ。用を足して帰ればいい。こんなオフィスビルのトイレに入る機会もなかなかない。  ビル内のレイアウトはオフィススペースの周囲をぐるりと廊下が囲むもので、俺はぐるぐる回ってトイレに駆けこんだ。個室と便器の横手に明るい空間がひらけている。つきあたりのガラスのところに王子様がへたりこんでいる。 「おい、あんた」  俺は王子様の横にしゃがみこんだ。 「大丈夫か? 気分が悪いのか?」 「……あ……」  王子様はぼうっとした眼つきで俺をみている。王子様なんて冗談で呼んでいたが、ほんとうに王子顔だな、と俺は思った。特撮の俳優や、アイドルタレントを思わせる造作だ。 「――すいません。大丈夫です」  王子様は小さな声でいった。立ち上がろうとしているのがわかったので俺は後ろに下がった。よろよろしている。 「何かあった? 怪我してない? 救急車とか警察――」 「いえ、大丈夫です」  よろめいている王子様は今度はもっと強い声でいい、俺は出しかけた手をひっこめた。肩でも支えた方がいいんじゃないかと思ったのだが、王子様にとっての俺は突然トイレにあらわれた通行人Aみたいなものだ。王子たるもの、通行人に支えられるわけにはいかないだろう。 「あんた、具合悪いなら病院行けよ」 「すみません。ありがとうございます」  王子様はまっすぐ俺をみつめていった。俺はうなずいたものの、いささか大げさすぎたな、と反省していた。わざわざ隣の屋上から走ってくるようなことではなかったのだ。まあ、王子様は気づいていないのだろうが。  俺はうしろに下がりながら、なんとなく王子様ごしにガラスの向こうを見た。蛍光灯のちっぽけな明かりに見覚えがあると思ったら、俺の辛気臭い休憩場所だった。そうか、ここからはこんな風にみえるのか。 「じゃあ、気をつけて」  俺はそういってトイレを出た。まっすぐエレベーターに向かった俺のあとを王子様はついてこなかった。  この展開のあと、もうトイレで王子様を見ることはないんじゃないかと俺は思っていた。ところがそんなことはなかった。翌週も王子様は向かいのビルのトイレに出没したからだ。今までとおなじように、俺の残業あけのころに。そして同じ男となにやらやっているらしい。一度は抱擁しているのもみたし、向かい合って話をしているのも見た。  さては一度破局寸前までいって、そこからよりを戻すパターンか――などと俺は想像した。まあ、うまくいってるのならいいんじゃないの。もっとも、屋上からみあげる王子様にはいまだに不幸そうな印象があった。顔も間近で見てしまったので、いまでは向こうが本当に王子顔のイケメンなのはわかっているのだが、姿勢がいまひとつイケメンではない。いや、順調なイケメンのものでない。どういえばいいのか、背中がすすけているというか、景気が悪いというか、多少上がったり下がったりしても結局はダラダラ下り坂の株価みたいな、そんな感じ。  まあ、人生ってのは――と俺は缶コーヒー片手に思っていた。いつもいつも右肩上がりじゃないにせよ、ここで一発巻き返しとか、してほしいんだけどなあ。俺の王子様だから。いや、俺のじゃないけど。  そんなある日のことだ。  暗い屋上からみあげた明るいトイレに例によって王子様があらわれた。あれ、と俺は思った。何か変だった。上着はなく、シャツが肩からずれている。ずれているというより、乱れているというか、前が開いていて――  え、と思ったとき、王子様の背後に肩幅の広い例の男がやってきた。王子様はふりむくと彼に向き直り、そして、すっと男を平手打ちした。  え?  俺はぽかんと口をあけ、その光景をみていた。平手打ちされた相手が手をのばしたが、王子様はその手をふりはらい、今度はグーで殴った。相手は殴られたところを手で押さえ、王子様をねめつけている。王子様は拳をにぎったままだ。ふたりはしばらくにらみあっていた。相手の方が先に顔をそらした。  そして、いなくなった。  俺はあいかわらずぽかんと口をあけたままだった。ふと王子様がこちらを見ているのに気づいた。ガラス越しにこっちを見ているのだ。  俺を見ている。 「おい、あんた!」  そう気づいたとき、俺は思わず叫んでいた。こちらは屋上、あっちはビルのガラスの中。聞こえるわけがないのに。 「大丈夫か?」  王子様は答えなかった。その手が上がって、ピストルの形になって、俺の方を指した。  やっぱり俺?  缶コーヒーを握った指が麻痺したようになっていた。俺はゆっくりと缶を足元に置いた。こわばった指で自分の方をさした。  王子様がうなずいた。  反射的に手をあげ、振ったのはどうしてなのだろう。俺は王子様に向かって手を振ったのだ。 「ちょっと待てよ――行くから!」  聞こえているはずはない。なのに王子様はうなずいた。  俺は屋上を飛び出し、エレベーターに乗り、外に出た。向かいのビルへと裏通りを渡り、自動ドアを通り抜けてエレベーターに乗り――  そしてトイレへいった。王子様のところまで。
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