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〈 Ⅰ 〉咲と奏
「ドガピシャガラーンいうてん」
「そうなん?雨と雷さんやったん?」
「うん」
黄色の雨合羽に黄色の長靴で、水溜りをわざと選んで奏は歩いた。
つい先月までは、必ず手を繋ごうとしてきたのに、最近はひとりで歩きたがる。
「奏、お手てつなごう。もうすぐ大きい道に出るし」
夕食の買い物はリュックに入っている。雨の日はスーパーのビニール袋を持って傘を差すと、奏と手が繋げないからリュックにしたのに。
夕立を受けた道端の紫陽花は、白い花弁ひとつひとつに露をしたためている。
かなり強い雨だったらしいが、小さな花弁たちは、しっかりと開いたままでこちらを見つめているようだった。涙を湛えているようにも、清々しい汗をかいているようにも見える。
雨はもう上がっている。それでも奏は黄色い雨合羽のフードを被ったまま、紫陽花の前から動かなかった。
「おかあさん、でんでん虫や」
緑の葉の上にいる小さな小さなカタツムリを、同じ小さな指先で指差しながら振り返った奏は、大発見をしたように頬を紅潮させている。
カタツムリを初めて見たわけでもないだろうに。
「ドガビシャガラーン、いうたのになっ!こんな小さいのになっ!」
鼻を膨らませて、ちょっと興奮しているみたいにカタツムリを指差している。
そんなに凄い雨だったんだね。
最近、このあたりの気象はおかしい。三駅離れた私が働く街が晴れている時に、いきなり大雨が降る。ほんの一時だけれど、もれなく雷も付いてくる大雨を、義母は『スコールみたいに』と言った。海外旅行をしたこともないから、スコールなんて知らないくせに。
「小さいでんでん虫やね。葉っぱの傘に守ってもらったんやね」
私の声かけに頷くでもなく、奏はまた紫陽花の方に向き直り、その前を動かなかった。
「奏、行こう。また凄い雨降ってこないうちにおうち帰ろ」
彼に向かって手を伸ばすと、ちょっとキョトンとした顔をした。
「お母さん、お買い物どっか忘れた?」
「お背なのリュックやよ。奏の遠足みたいやね」
「そっかあ、おせなかあ」
奏はそう言うと、小さな手で私の左手をキュっと握る。
彼のフードを外した。
「今は雨やんでるよ」
そう言って左手の方を見下げる。
奏は私の腿のあたりから見上げて
「はよ、かえろか。おなかすいたな」
と笑った。少し大人びた言い方。まるで・・・
遠くの空に真っ黒な雲が見える。あの雲が来るまでに家に入りたい。
左手の奏の小さな手をキュと握ると、ちょっと舌ったらずな話し方で言う。
「おとうさん、くるまえにかえろか」
うん?おとうさん?
謎の言葉を言った奏は、大きな声で新しく保育園で教わった歌を歌いながら歩く。
私の一歩は、奏の二歩。私が急ぎ足で歩くと奏は小走りになる。
ごめんね。
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