〈 Ⅰ 〉咲と奏

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玄関から中に入り、ドアを閉めた途端だった。ドアの外でザーッといういきなりの雨の音。 「セーフやったね!ごめんね、走らせて」 奏は何も言わずに、私の左足のズボンを握りしめて支えにしながら、器用に長靴を脱ぎ飛ばすと雨合羽のままで部屋に入っていった。 袖が短くなっている、長さも。買い替えないとなあ。 奏の長靴を揃えて部屋に入ると、雨合羽のまま窓のそばにいる。レースのカーテンを握りしめながら窓の外を見ている。小さなベランダに叩きつけるように降る雨を見てるのかな。近づいて視線の先を確認すると、空を見ている。 「奏、靴脱いだら揃えなあかんよ、長靴でも」 隣にしゃがんで奏の頭に手を置いた。フードを被っていたから、湿っているのは汗だろう。走らせちゃったね、ごめんね。 「はーい」 そう答えながらも視線を動かさずに、奏は暗い空を見上げている。 「雨が出てくるとこ見てるの?」 しゃがんだまま、同じ高さから窓の外を見上げた。 「おとうさん、こうへんかなあ」 奏は私に言うでもなく、そう言った。 おとうさん?ガクさん? 奏は4歳。やはりまだ死を理解することはできないのかな。ちゃんと朝晩お仏壇に挨拶させているけど。 「奏、お父さんにただいま言おうか?」 立ち上がって汗に湿った頭をくしゃっと撫でると、奏はフルフルと首を振った。そのまま窓の外を見続けている。空は見る見る間に暗くなっていく。 この大雨の時期を過ぎると、奏は5歳になる。 ガクさんが逝ってから、初めての夏がくる。 奏の雨合羽を脱がせながら、この雨合羽を買ったときのガクさんを思い出していた。 『絶対、黄色!』とガクさんは譲らなかった。 『黄色は一番目立つ色やからな』そう言ったガクさんに 『赤は?』と聞くと、『夜に見えにくい』と教えてくれた。 ガクさん自身が黄色の雨合羽を着ていればよかったんだと思う。 彼の雨合羽は紺色だった。 思い出したら泣きたくなる。でも泣いている暇はない。晩御飯を作って、奏をお風呂に入れて、洗濯をして、明日の準備、奏に絵本を読んで寝かせて。 「奏、手を洗おう」 黄色い雨合羽をハンガーにかけながら言うと、奏はさっきよりしっかりとレースのカーテンを握りしめているのに窓のそばを離れない。 雷は苦手なくせに。 この家の中では雷が聞こえると、私のそばに来て半べそをかきながら耳を抑えていた。 保育園ではどうしているんだろう。 男の子、強くなってほしい。 「おかあさん!おとうさん来たで!」 窓の外を見ていた奏が、ちょっと大きく言った声で我に返る。 「奏、おとうさんって?」 「もうすぐ大きくなるで!」 そばに行ってもう一度同じ高さにしゃがむと、奏は私の手を強く握った。 そして黒い雲の方を見つめている。 「奏、雷さん来るよ」 窓から離れない奏を不思議に思いながら、テーブルに置いたリュクの中身が気になる。早く冷蔵庫に入れないと、お弁当用の冷凍食品も入っている。背中が冷たかった。 今夜は、カニカマの天ぷらと卵焼き、奏の好きなポテトサラダ。 ちゃんとじゃがいもを茹でるところから作りたいけど、時間を考えるとお惣菜を買ってしまう。出来上がったものにキュウリの塩揉みを足しただけのポテトサラダを、奏は美味しいと喜んでくれる。その笑顔を見る度に奏とガクさんに心の中で謝っていた。 「おかあさん!おとうさん来たで!」 ゴロゴロという雷の音が近づいてくるのに、奏は窓際を離れない。 「奏?」 呼びかけてもこちらも見ない。ただ空を見つめている。 雷の音はどんどん大きくなる。 奏が開けているカーテンの隙間から、空を裂くような稲光が光った。 駆け寄って、思わず奏を抱きしめた。 一瞬間をあけて爆音。どこかに落ちたようだ。 奏を抱く腕に力が入っていた。 見ると、カーテンを持つ奏の小さな指先にも力が入っているらしく、カーテンがキュッと引っ張られている。 「奏、大丈夫?」 雷の音が去っていく中、奏の顔を覗きこんだ。 「おとうさん、きたなあ」 ようやく窓の外から私の方を振り返って、ニコっと笑った。その様子にわけがわからないまま緩めた私の腕を抜けて、奏は洗面所にトテトテと走っていった。 水道の水が出る音に混じって、 「ドカピシャガラーン!」 という奏の声が聞こえた。
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