ワンルーム・エゴイズム

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僕は彼女の痕跡をすべて保存しようとした。専用にした食器やタオルや、買い与えた何枚かの下着、抱き枕代わりにしていた一メートルもあるテディベア(首に巻かれたピンク色のリボンには色褪せたような染みがいくつもついていた)。彼女が生活していた部屋にすべて集め、いつ彼女が帰ってきてもいいように。 しかしサトシは「処分するべきだ」と言った。 「証拠があるのはまずい。この部屋だって、早く引き払った方がいい」 このマンションは僕の名義だ。いざとなったらサトシだけは逃げればいい。そう説得を試みてもサトシは「そんなにうまくいくはずがない」と頑なだった。 「二人いた、兄弟だった、とあの子が証言すればそれまでなんだから。一緒に捕まるか、一緒に逃げるか。ふたつにひとつだよ、兄貴」 何度言われようと僕はこの部屋を離れる気はなく、タオルや食器やクマを捨てるのだって絶対に嫌だったので、最後にはサトシが折れた。というより諦めた。彼女がいなくなって五日目のことだった。 一週間経ち、十日経ち、半月が経った。 僕の睡眠時間は目に見えて減っていた。 眠っていると警察がやってきてインターフォンを何度も鳴らし、返事をせずに息を潜めていると、今度はドアを叩かれるのだ。ドンドンドンドンドンドンドンドンドン、ここを開けて出てきなさい、誘拐犯のヤエサワ兄弟。 「違う、誘拐じゃない」 両手で耳を覆いながら、僕は叫ぶ。フローリングの冷たい床に蹲って。 荒々しく揺らされるドアの向こうには彼女もいる。この部屋に、この三〇五室にわたし監禁されていたんです、冬の終わりからずっと、キッチンのとなりの部屋に。だからわたし、桜も見られなかった。 「監禁じゃない、だってきみが。桜は嫌なことばかり思い出すって。誰にも会いたくないって。言ってたじゃないか」 ガチャ、ドアノブが捻られる音に顔を上げれば、サトシの後ろ姿があった。開いたドアの隙間から無数の手が僕らの家の中に入ってきて、サトシの衣服や身体を無遠慮に掴み、ずるずると外へ引きずり出そうとした。 「やめてくれ、違うんだ、サトシは違うんだ」 僕は弟の背中へ駆け寄ることすらできずに、いっそう縮こまって叫ぶ。塞がれた耳の、そのさらに奥のほうで、自分の声だけがぐわんぐわんと響いて聞こえる。 「僕なんだ。僕が、あの子を」 脂汗にまみれながら目を開けると、決まってサトシがそばにいる。冷たい濡れタオルで僕の額や首のあたりをゆっくり拭いて、母が子にするように前髪のあたりを撫でている。 「兄貴は悪くないよ」 そう囁いて、僕の身体を覆った薄い毛布を直す。それを聞いて僕は今度こそ静かな眠りに落ちる、しかしそれも、長くは続かない。
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