橘さんのこと

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橘さんのこと

 空気はじめじめとしている。   防犯カメラに入らないようにして、僕は駅の椅子に座った。  犯罪者の気持ちをわかりたかったのだ。あんなに真面目な橘さんが、万引きをしたのである。  後ろの壁に、不審者情報が貼ってある。僕は下半身が裸の中年男性を想像した。  いつもの僕なら笑っていただろう。ところがなぜか笑えなかった。  目の前に女のおしりがあった。  それは橘さんだった。 「あら、Yくん」 「橘さんだ...」  そこに電車がきて、僕たちは隣同士座った。  橘さんが前を向いたまま、 「なんであんなことしたと思う?」 「社会に不満があるから?」  社会学の教授顔負けの理論武装で、どこにだしても恥ずかしくないような犯罪の理論は成立するだろうか? 真面目な橘さんなら、それができそうである、と僕は思った。彼女は芸術テロのようなことをして、賞賛されたことがある。 「ううん」と橘さんは横で顔を振った。「完全にむしゃくしゃして、やった」  僕は驚いて橘さんの方を向いたが、橘さんは前を向いたままで、その顔がよく見えなかった。 「じゃあ、どうしてむしゃくしゃしてたの?」 「わたしはしあわせだった。それでも、子供みたいに、理由なしに...」   そのとき僕は前の窓から見える、パトカーの赤いサイレンから目が話せなかった。
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