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準備をしよう
彼らの通う高校は、奇妙な形をしている。
正面玄関を中央に、「く」の字型に折れ曲がって校舎が開けていた。正面玄関の向かい側にグラウンド。「く」の下端に体育館と格技場、上端にプールが、グラウンドを囲むように建っている。
校舎の中は、1階が職員室と1年生の教室、2階が実験室と2年生、3階が社会科室と3年生、4回が美術室、音楽室、視聴覚室等の補助教室である。
変な造りの学校だが、通うとそれなりに慣れるものだ。少なくとも、
「視聴覚室にプロジェクタ戻しておいて」
と言われても、戸惑わない程度には。
しかし怠け者の担任であった。日直でも学級委員でも何でもないただの通りすがりに頼むことではないし、ついぞ授業で使った覚えもないプロジェクタなんぞを渡されるのもおかしいし、そもそもこの古臭いプロジェクタはちゃんと映る代物なのだろうか。
「何だよ、優愛帰っちゃったじゃん」
ぶつぶつ文句を言う陸人に。
「この程度のお使いも待ってられないって、それ愛されてないね」
隣のアキはきついことを言う。
陸人は大きく唸った。
「やっぱそう思う? すぐ終わるから待っててって言ったんだけどなあ。なんか友達とクレープ屋行くからとか、あっさり断られて」
「陸人よりクレープの方が大事なんだろ」
「彼氏よりクレープ?」
「色気より食い気」
アキは容赦がない。彰尋というのが彼の名前なのだが、知り合った時からずっとアキだ。
「3か月くらいだったっけ、保科さんと。既に倦怠期?」
アキが薄く笑いながら言った。
陸人はむっと唇を尖らせる。
「倦怠期もなにも、たぶんお前の言う通りなんだろ。俺なんて間に合わせの彼氏なんだよ、きっと」
「なに、今日自虐的だな」
「現実に気付いちゃったの。ああもう、嫌だ嫌だ」
陸人はため息をついた。
むっちりした優愛の腰や、制服のスカートから覗く腿や、するんとした膝裏や、紺色のハイソックスのことを思い出すとイライラムラムラしてくる。
優愛と付き合い始めたのは、アキの言うより少し長く4か月前のことだ。2年に進級した後の5月、告白したのは陸人から。あれは一世一代の大勝負で、OKをもらったのだから賭けには勝ったはず、だった。
現実はこんなもの。優愛はたまたまフリーでそろそろ彼氏でも欲しいなと思っていた頃で、陸人のことは「嫌いではないクラスメイト」だったからOKしたに過ぎないのだろう。
「だってさあ」
陸人の口から、愚痴が零れる。
「4か月も経ったっていうのに、いまだに何にもしてないんだぞ?」
「なーんにも?」
アキのこの「何にも」は、陸人にはばかにしているふうに聞こえた。
陸人は慌ててぶんぶんと首を振る。
「いや、キスはした。キスはしたぞ、いくら何でも」
しかしアキは笑う。
「キスだけ? マジで?」
「何だよ、キスだけじゃ悪いのかよ」
機嫌を損ねる陸人に。
「4か月付き合ってキスだけなんて、あ・り・得・な・い」
一言一言区切るように強調して、アキが言った。
「あり得ないのかよ……」
「何のために付き合ってるんだっつーレベルの話だな」
「マジかよ」
情けなく表情が崩れる陸人であったが、意地悪なアキはさらに刺した。
「お前、4か月もなにやってたの」
「いや、それなりに迫ったりはしてた! これでも抱きしめようとかしてきたし! ……でもかわされるっていうか、なんて言うか……」
陸人はがりがりと頭を掻いた。
「させてくんないんだよ。それってつまり……俺のこと、エッチしてもいいくらい好きって訳じゃ、ないっていうか」
「間に合わせね。だろうなー」
アキはやっぱり容赦しない。
「で、そんななのになんでいまだに付き合ってんの。そんなに好き?
「うーん……。まあ、それもなくはないし、付き合っていけばそのうちさせてくれるかなとか、思ってて」
これに、アキはぴしりと指を立てる。
「ばっかだなあお前、4か月なかったらその先もないんだって」
「ええ? そうなのか?」
「そうだよ。だって保科さんどう見ても非処女だろ。それでさせてくれないってことは、今後もないね。しかもたかがお使いを待っててもくれないんだろ? ないない、絶対ない。とりあえずキープされてるだけなんだよ、お前」
「そうなのかな……。いや、でも、優愛はそんなひどい子じゃないよ」
間に合わせだと言い出したのは自分のくせに、他人から言われるとつい庇ってしまう。惚れた欲目というやつか。
しかし陸人の心は瀕死であった。恋愛関係では、アキの方がずっと上手だからだ。
アキはふふんと鼻で嗤い、何も言わなかったが、その表情だけで見下されているのがよくわかる。
陸人はむっつりと口を曲げた。
「お前はどうだったの。ほら、去年つき合ってた子いただろ」
「ああ……」
アキは遠い記憶を呼び起こすように、切れ長の目をくるりと巡らした。
「付き合ってって言われて、3日めくらいだったかな」
「3日!? 早過ぎだろ!」
絶句しかけた陸人だったが、アキは逆にきょとんとする。
「そんなもんだろ?」
「……いや、3日は結構記録的なんじゃないかな」
「そんなことないって。付き合おうって言われる前にしちゃったこともあるよ」
「はあ? マジで?」
陸人には理解できない。
アキには去年、確かに彼女がいた。が、どういう訳かそれもひと月ふた月で終わり、その後は誰とも付き合っていないはずである。少なくとも話には聞いていない。ということはその、「付き合おうと言われる前にした相手」は、中学生の頃の話なのかもしれない。
自分とは次元が違い過ぎて、陸人は二の句が継げなかった。
アキは、きれいな顔をしている。
左で分けた真っ直ぐな黒髪が額に落ち、さらりと流れて、切れ長の瞳が見える。正面から見据えられると、同性の陸人でさえちょっとどきりとしてしまうような印象的な瞳だ。瑕ひとつない肌、鼻筋の通った整った顔立ち。指で唇に触れる癖があって、女の子たちの際どい話題によると「キスが上手そう」。
「園田君、キスしようよー」
などと軽い女子にからかわれて、
「そういうこと言われると、俺本当にするけどいいの」
なんて薄く笑って返せるくらいの、余裕。
それを間近で目撃して目を剥いたのは陸人である。きゃー、なんてはしゃぐ女の子たちをよそに、何もなかったかのように話しかけてくるアキがまるで宇宙人のように見えた。
そんな陸人だから、優愛という恋人ができた時は嬉しくて仕方がなかったのに。
苦悩。
担任から預かった鍵で視聴覚室の扉を開け、抱えていたプロジェクタを棚に戻す。室内はしんと静まり返り、グラウンドから聞こえる陸上部だか野球部だかの声と笛の音と、そんなものがまるで非現実的だった。
「ああ、もう、エッチしてえなあ」
陸人はついぼやいてしまった。
アキが噴き出す。
「なに、お前そんな溜まってんの」
「溜まってるっつーか、なんかすっげえ悲しいの。切ないの」
薄々そうではないかと思っていたことだが、アキにきっぱり言いきられてしまうと思った以上に堪える。何も始まっていないようなものなのに別れの予感が既にし始めていて、そんなもの悲しむなという方が無理だ。
前途は多難である。
「……せめて1回くらいやらしてくんねーかな」
なんて、本音のような建前のような言葉が漏れてしまう。
アキが、少し首を傾げて陸人を見ていた。
「陸人、ちょい、こっち」
唐突に、アキが陸人を誘った。
指さしているのは隅の小さなドアである。視聴覚準備室だ。
「なに?」
「いいから」
アキは陸人の手を取った。準備室の扉を開けて、がちゃりと閉めれば内から鍵がかかる。
準備室の中は様々な機材や資料が並び、さながら倉庫のような様相を呈している。さらに言えばいくらか埃っぽい。期末の大掃除くらいでしかきちんと片付けられないのだから、汚いのも当然かもしれない。
陸人は一度くしゃみが出た。
「なあ、何だよ」
尋ねると、アキは振り返った。振り返って、辺りを見回した。
「しまったなあ、膝ついたら汚れそう」
「は?」
「まあいいか、めちゃくちゃ汚いってほどでもないし」
「なに?」
訳がわからない陸人をよそに、アキは跪いた。
「え、アキ、どうし……」
陸人は最後まで言えなかった。
アキがスラックスのファスナーに触れ、下ろして、中に手を忍ばせてきたのだ。
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