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治癒の過程
校門前の路上に、黒い軽自動車が滑り込んでくる。
点滅するハザードランプ。停まった先は左側の路肩だ。助手席の扉が開き、アキが降りてくる。今日は少し、いつもより遅いようだ。
陸人は大きく手を振った。
「アキ!」
アキもすぐに気付いて手を挙げる。ちらとだけ車の方を振り返って、しかし特に何も言わなかった。
陸人の方が、アキの母親に会釈する。
アキの母親も挨拶を返して、車を発進させた。
「おばさん、これから仕事なんだよな? 本当に毎日送ってきてるんだな」
「うん。いいっつってんのに毎朝毎朝、面倒くさいよな」
面倒くさいと言いつつ、困っている様子のアキだった。
信崎啓吾と対決した日の翌朝、1階に降りるなりアキの母親は宣言したのである。
「今日からしばらく車で送るから」
「えっ?」
驚いたのはアキだ。
「お父さんとも相談したんだけど、その怪我させられた人、ここを知ってるんでしょう。ということは、学校の行き帰りにも現れる可能性があるってことじゃない? そんなの危なくてひとりになんてさせられないわ。だからお母さんが送り迎えすることにしたの」
アキの母親の表情は硬く、真剣だった。
「でも、仕事は?」
「会社に事情話して、2週間くらい始業遅れてもいいようにしてもらうわ。それくらい、できるわよ」
「でも……そんなの、俺、困るけど」
アキは困惑していた。
「そんなことしたら後々忙しくなって逆に困るんじゃないの。別に俺、迷惑かけるつもりもないし、親父も母さんも気にしなくていいよ。それに、親に送り迎えされるなんて、小学生みたいで恥ずかしいし」
しかしアキの母親も退かない。
「あのね、彰尋。怪我した時もおかしいって思ってたけど、家まで来るなんて異常よ。お父さんもお母さんも、本当は警察に相談すべきことだと思ってるのよ」
「やめて、それは困る」
アキが被せるように言った。少し、青ざめている。
「どうして? どうして警察を呼ぶのは嫌なの」
アキの母親が眉間に深い皺を刻む。
何も言わずに済ませることはできなさそうだった。アキは苦しそうに目線を外していたが、やがて言った。
「……知ってる人だから」
アキの母親がため息をつく。
「彰尋、知らない人に絡まれたって言ってたわよね。それは嘘だったの」
「……ごめん」
「相手はどういう人なの?」
厳しく問われて、アキはまた母親の目を避ける。
「……言えない」
「どうして?」
さらに尋問する母親であったが、アキは答えない。黙っているその姿が、母親にはふてくされているように見えるのだろう。アキの母親は徐々に表情を険しくしていく。
隣で聞いていた陸人が、見かねて助け船を出した。
「あの、すみません。アキは別に悪いことはしてないです。トラブルがあったのは事実だけど、アキが悪い訳じゃないんです」
アキの母親は、今度は陸人の方を向いた。
「久我山君は相手を知ってるの?」
「はい」
「彰尋が言えないって言う理由も?」
「知ってます。でも、俺も言えません。すみません」
「そう……」
とても納得しているふうではなかったが、アキの母親は息子に向き直った。
「警察沙汰にしたくないようなことなの?」
「……うん」
渋々、アキも答える。
「本当に大丈夫なの? もう嘘はついてない? 悪いことはしてないっていうのは、本当なのね?」
これには、アキは何も返さなかった。
アキは悪いことはしていない――そう言ったのは自分だが、アキが答えられない理由も、陸人は理解できるような気がする。
アキは、自分は悪いことをしたと思っているのだ。
「……迷惑はかけないから。別に、放っておいてくれていいから」
長い時間を置いて、アキが言った。
「彰尋。迷惑をかけられてるなんて思ってないわよ。心配してるの」
「……そういうの、いいから」
目を合わさない息子に、アキの母親は深々と嘆息する。
「仕事ばっかりしてて、ごめんね。彰尋」
それですべて許すほど、人生というものは甘くはない。
が、アキは母親の車で学校に行くことだけは了承した。下校は陸人と帰るからと言って頑なに拒んだが、それだけでもひとつの進展ではあった。
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