触れたい手

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触れたい手

 いままで通り、ということは、なかったことにする、ということだ。  陸人は頭を抱えている。 「どうしたの?」  優愛だった。 「ああ、うん……。何でもない」  ぼそぼそと答えながら、陸人は優愛の脚を眺めた。膝上15センチのスカートから覗く、肉付きのいい太腿。  ――何も感じなかった。  陸人は暗澹と自分の股間を見下ろした。すべすべむちむち美味しそうな優愛の脚を見ても、全く何の反応もない。健全な17歳男子としては非常に不健全な状態だった。 「一緒に帰ろ?」  優愛が言った。 「えー……。あー……。そう、だね」  漠然とした返答になってしまった。  以前だったら、優愛に誘われたら喜んで頷いたものだ。それこそ尻尾を振る犬よろしく、ふたつ返事でついていったはずである。しかしいまは、誘われてもあまり嬉しくなかったし、むしろ鬱陶しいとすら思ってしまう。  陸人は、アキを待っていた。  あれから1週間ほど経って、「これまで通り」という協定が結ばれてからは、暗黙の了解であのことは話題にしないようになっていた。アキの方は嫌になるほどこれまで通りで、陸人の方がはっきりしないことに悶々と悩み続けている。  けれど約束している訳ではない。これを断ったら優愛の機嫌が悪くなるだろうし、陸人はため息をついた。 「じゃ、ちょっと待っててくれる? 俺、アキに言ってくるわ」 「あ、園田君も一緒でもいいよ?」 「えっ?」 「行こう」  優愛はそう言うと歩き出し、陸人も慌てて追いかける。  同じ階の「く」の曲がり角を越えると、右手に実験室がある。アキの班は今日実験室の掃除当番なのだ。どうやら掃除自体はもう終わったらしく、アキは用具を片付けながら同じ班の連中と話しているところだった。  誰にでも向ける笑顔。いままでと同じと言った時と、何も変わらない。  ずきんと、陸人の胸が痛んだ。  陸人はアキを親友だと思っているが、アキの方はどうなのだろう。アキは、誰に接する時でもあまり態度を変えない。訊かれたことには大抵答えるし、誰かに秘密を打ち明けるなどということもなく、誰にも大事なことは言わない。親しくはなっても距離は詰めさせない、そんな付き合い方をする。  特別な相手、みたいなものを、作らないのかもしれない。  友達相手にああいうことをしたのも、陸人が初めてではないのではないか。同程度親しい相手にであれば、誰にでもああいうことができてしまうのがアキなのではないだろうか。  むくむくと、腹に黒い靄が沸いてくる。 「園田くーん」  優愛がアキを呼んだ。 「なに?」  アキが優愛を、それから陸人を見る。 「私たちこれから帰るんだけど、園田君も一緒に帰らない?」  優愛が無邪気に言うと、アキは苦笑した。 「いやいやなにそれやめて。邪魔するのも嫌だし、ふたりで帰りなよ」 「え、大丈夫だよ。ドーナツ食べて帰ろうかなって思ってるんだ。一緒に行こうよ」  ドーナツ?  陸人はぱっと優愛を見た。そんな話はいま初めて聞いた。  ドーナツと言えば駅前のドーナツ屋で、そういえば今日からセールだとか何とか女子たちが言っていたような。  駅前のドーナツ屋。アキの恋人が、アキを見初めたらしい場所。  だんだん不愉快にすらなってくる陸人をよそに、アキが笑った。 「いやいや気まずい気まずい。ないでしょ普通」 「そうだよ優愛、それはないよ」  くすくす忍びながら、別の女子生徒が横から口を挟んだ。 「そっか……。あ、じゃあ、他の子もうひとり誘ったらいい? 4人になれば問題ないよね」  何だそれは。偽ダブルデートか。人数の問題ではなかろう。  優愛のこういう発想は、陸人には理解できない。 「俺いまそういうのいいや。ごめんね保科さん」  アキがあっさりかわしてくれたので、陸人もほっとした。  優愛は、かわいらしく小首を傾げる。 「そう? それなら仕方ないね。じゃあ陸人君、行こうか。ばいばい、園田君」  優愛はアキに手を振り、その同じ手で、陸人の手を取った。  陸人はずっと黙っている。  優愛が、違う世界の住人のように思えた。いや、もともと優愛の気持ちなんてよくわからなかったが、それに加えてこの女は何を考えているのだろうと怒りすら覚えた。  淀んだ気持ちを抱えたまま優愛とバスに乗り、駅前で降りて、ドーナツ屋に入る。太りやすいんだよね、などと普段言っている優愛だが、ドーナツはふたつ取った。陸人は食欲もなく、カフェオレだけを頼んで席に座る。  イチゴのグレーズがかかった小ぶりのドーナツを、優愛はさらに割って口に入れた。  優愛の唇は小さくて、ぽってりと厚い。いつも色付きのリップクリームを丹念に塗っていて、つやつやと輝いている。  アキとは全然違う。アキの唇は少し薄くて……。 「どうしたの?」  優愛が顔を上げた。 「あ、いや、別に……。うん、あの、ごめん、ちょっとトイレ」  陸人はしどろもどろに断ると、密かにスマートフォンを尻ポケットに入れた。  優愛からは見えないトイレの前で、メッセージを打つ。 『なんかごめん』  アキからは、すぐに返信があった。 『なにが?』 『優愛。なんか押しつけがましかったっていうか、あれは俺もないなって思った』 『そう? 別に普通じゃない?』  アキはどうとも思っていないようだ。安堵していいものかそれとも歯がゆく思うべきか、陸人にもよくわからない。  陸人は時計を見上げた。学校を出てから、ゆうに30分は経っている。 『いま、家?』 『うん』  アキの返事は簡潔であった。 『ひとり?』 『そう』  これには、陸人は胸を撫で下ろした。少なくともあの男と一緒ではないのは、喜ばしいニュースだった。  ――いや、別にアキのことばかり考えている訳ではない。ただ、心配だからだ。あの男は変な奴のようだから、アキがあいつと一緒にいないというのはアキのためにいいことだと思って、それで安心したのだ。  そう考えて、陸人は無理やり自分を納得させる。 『家でなにしてんの?』  この質問に、少しの間が空く。 『お前保科さんとドーナツ屋行ってんじゃないのかよ。彼女放っといていいのか』  陸人は言葉に詰まった。  確かにアキの言う通りだ。せっかく誘ってくれた優愛を放置してアキとやり取りしているなど、どう考えても変だ。  陸人はホールの方に首を伸ばして優愛を覗き見る。優愛はドーナツを食べつつ、スマートフォンを弄っているようだ。  戻った方がいいのは、勿論わかっている。わかっているのに、指が動いた。 『アキは、なにしてんの』  間。 『別になにも』 『この後は?』 『さあ。なんか適当に作って食べる』  アキの両親はふたりともフルタイムで働いていて、毎日忙しいらしく遅くまで帰らない。母親の方は早くて20時過ぎだし、父親に至っては日付が変わる頃までかかるのも珍しくないという。  母親が朝早くから夕食の準備までして出勤していくのが、気の毒になったのだとアキはいつか言っていた。自分の飯くらい自分で作るから仕事してきなよと言って、その後は自分で何とかしているそうだ。  両親のいないアキの家に、陸人は何度も上がった。漫画を読んだりゲームをしたり、どうでもいいことを喋ったり、アキの部屋は自由で居心地がいい。  いつも母親がいる自分の家とは違う。様々な意味で。  陸人はスマートフォンに視線を落とした。 『ドーナツ、買ってってやろうか』  それは、たぶん口実。 『なんで』 『差し入れ?』 『いらん』  跳ねつけられて、陸人はこめかみを掻く。  ばっかじゃねーのと笑うアキの顔が、見えるようだった。
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