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井筒屋の事情を語るなら、時間を十年程遡る必要がある。
本来の井筒屋店主は源兵衛といった。今回殺された治郎吉の実の兄である。
源兵衛は、三代前に暖簾分けされてから代々続いたこの店を、堅実に、手堅く商っていた。人柄に関して近隣の評判もよく、そして贔屓の客も多かった。
井筒屋源兵衛は、悪所通いをするでもなく、余所に女を囲うわけでもなかったから、夫婦仲もよかった。商売にも熱心で、奉公人にも慕われていた。
妻おみつは、室町にある本店から嫁いできた娘だが、決して奢る事もなく、夫を支え、奥間を切り回し、先代であり、隠居した義父母にもよく気を使った。
跡継ぎにも無事恵まれて、すべては順風満帆だった。
井筒屋夫婦は、日々奉公人に交じって熱心に働いていたが、そんな二人が唯一商売以外に楽しみにしていたのが、芝居である。
堺町にある、江戸一番人気の中村座を、夫婦も贔屓にしていた。
普段は仕事第一の源兵衛が、中村歌右衛門の舞台があると聞くや、妻と一緒に指折りその日を数えて楽しみし、見世に飛び込んでいく。
子が生まれてもそれは変わらず、まだむつきもとれぬ息子を、嬉々として連れ出そうとした時は、当時の筆頭番頭と乳母が、必死に「まだ早すぎます」と止めたのだとか。
それでも我が子が自らの足で立つ頃には、一家三人めかしこんで芝居に向かった。
――――その日、早朝になってその子供が高熱を出した。
前日から小さな咳をしていたようで、数年前のコロリ流行の記憶も、まだ鮮明な時期だった。
もちろん、夫婦はその日の外出を取りやめよう、と一度は決めた。
しかし訪れた医師はからりと笑った。
「こりゃただの風邪だ、大した事はないよ。なあに、この年頃の子にはよくある事だ。
芝居は働き者なお二人の、唯一の楽しみなんだろう?
大丈夫、この子も二人が帰ってくる頃にはケロっとしているよ」
店の者も主夫婦を思って、「坊っちゃんは、私共がみておりますから」「どうぞ安心して行ってらっしゃいませ」と二人を送り出した。
二人も多少後ろ髪をひかれたようだが、最後には医師の「気晴らしを忘れれば、それこそ己の心に病をもたらすぞ?」とまで言われて、二人仲睦まじくでかけていった。
でかけていって――――帰宅した時には、真っ黒焦げの黒ずみになって帰ってきた。
巳の刻頃に佐久間町から出火した炎は、あっというまに燃え広がり、沈下するまで丸一日を要する大火となった。
佐久間町と堺町は、近いとはいえ、間に神田川があり、本来ならば十分に逃げ切れたはずである。なのに、逃げられなかった。
夫婦が逃げようとしていた道を、大きな大八車と、そこから零れた大量の積み荷がふさいでいたのだ。
―――火事にはよくある話である。
逃げようとした者が、つい欲を出して家財を大量に運び出そうとしたはいいものの、火勢と逃げる人波に荷物が邪魔になり、己可愛さでその場に荷物を放り出して逃げ去る。
そうで無くとも、商店の並ぶ道の両側には普段から、日本橋川から届いた荷物が高々と積み上げられている。――それらが崩れれば・・・。
結果として、多くの逃げ遅れた者達と一緒に、夫婦も炎に巻かれて焼け死んだ。
結構な数が犠牲になったので、当時の高積改方が責任を取らされたと聞いている。鈴木もその辺から井筒屋の話を知っていたのだろう。
当時隠居していた源兵衛の両親は大いに嘆き悲しんだ。出来物の息子を失い、残されたのはまだ幼い孫。自分が再度店主に収まろうにも、足腰が弱りきっていて、とてもとても。
井筒屋が悲しみに包まれる中、夫婦の喪が明けた頃にひょっこり顔を見せたのが、治郎吉だった。
皆、驚いただろう。当時治郎吉は札付きだった。近所の悪仲間とつるんで、悪所通いをし、賭けはやる、女は作る、暴力は振るう、と両親を大いに嘆かせ、泣かせもした。
その為、番所にある人別帳の彼の名前には、べったりと赤札が張り付けてあったのだ。
札付き止まりの、勘当まで行き切らなかったのは、やはり肉親の情だろうか。
実際に彼が、家を出て行って何年経っていたものか・・・。
治郎吉は己の両親に向けて、頭を地につけ謝罪したのだという。
―――今まですまなかった。兄さんの悲報を聞いて、恥を承知で帰ってきたのだ。
実はずっと、家族には悪いと思っていた。どうか、親不孝者の自分に、もう一度機会を与えてほしい。悪仲間とは手を切った。もう悪所通いもしない。借金だって綺麗にした。どうか自分を家に戻してほしい。
都合が良すぎる、と誰もが思った。すわ乗っ取りかと勘繰った者もいて当然だ。
だが治郎吉は、自分が店主の座に納まる事をきっぱりと否定した。
自分は代理だ。兄さんの息子である弥吉が立派になるまで、店を支え、弥吉が成人したら、自分はすっぱりその立場を退いて、彼が正式に跡目を継げばいい。
誰も、信じなかった。それほどかつての治郎吉の振る舞いは酷かったのである。
店の中には、彼に悪戯された女中も、暴力を振るわれた手代もいた。近所にだって、彼の悪所通いに引っ張られて道を外した者も、彼の悪仲間をけしかけられた者もいたのだ。
ただ・・・大粒の涙を零し、何度も何度も地面に頭をつけて謝罪する息子の姿に、両親だけはほだされてしまった。
無論、孫のこの先と、治郎吉の過去の所業を思えば、懸念が無かったわけではないだろう。
だが、己らの身も長くなく、店を主不在のまま続ける事ができるはずもなく、そしてやはりそこは、血の繋がった者にこそ店を切り回して欲しいという思いがあった。
この辺、老舗の意地である。哀れな意地だ。
そうして舞い戻った治郎吉は、成程確かに、かつての行いが嘘のように立ち働いた。
以前の横柄だった態度はなりを潜め、番頭の話を良く聞き、老いた両親を気遣い、所作も、言葉遣いも、全て生まれ変わったようになっていた。
かつて迷惑をかけた近所にも、自らでかけて頭を何度も下げた。
誰もが噂をした。きっとすぐに化けの皮がはがれるぞ。
治郎吉が件の火事の、出火現場近くで目撃証言が上がった時など、ほら見た事かと皆が疑った。火事で死んだ先代は、治郎吉に殺されたのだ・・・などと噂して。
流石に佐久間町から堺町の源兵衛夫婦を都合よく狙えるわけもないが、そんな話が出ずにおれぬほど、治郎吉のかつての行いは悪かったのである。
だが、両親は喜んだ。本当に、―――本当に喜んでしまった。
ああ、安泰だ。治郎吉が帰ってきてくれた。きっと源兵衛の魂が、治郎吉を改心させてくれたのだ。
親馬鹿ここに極まり。老いて弱った体を、ずっと音沙汰の無かった息子が気遣い、優しくしてくれて、自分たちが先祖代々つなげてきた店を営んでくれている。
その後、治郎吉は妻を迎えた。取り立てて美しい娘ではなかったが、真面目で気配りもできる娘だったのだという。両親の世話は主にこの妻がした。
そうして、治郎吉は離れを改装した――両親の部屋を、静かに隠居できるようにと庭の美しい、一番広い、一番奥の、・・・店表の喧騒も聞こえない静かな部屋に移した。そこに裏門をつけて、表に回る必要もなくした。
治郎吉が兄の息子、弥吉を修行に出すと言った。――両親には、「昨今それが普通なんだよ」と言って。陣笠問屋とは、まったく繋がりの無いはずの呉服問屋に丁稚に出した。
治郎吉の最初の妻が死んだ。――治郎吉は当時の筆頭番頭が犯人だと、妻に横恋慕していたのだと言った。実際当時の彼の部屋から生野銀山が出てきた。
治郎吉の両親が死んだ。――治郎吉は嘆き悲しみ、大げさな葬式を執り行った。喪主は治郎吉で、弥吉は呼ばれもしなかった。
治郎吉が再度妻を娶った。――今度は美しい女で、二人の間に生まれた子供に、継吉と名付けた。今回殺された女と赤子である。
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