一章:嘘を嗅ぎ別ける男

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 忠左は湯屋の前で、ぶらぶら袖を揺らしながら人を待っていた。  ここに、忠左が使う下っ引き・・・手下が働いているのだ。十分すぎる程待たされて、ようやく湯屋ののれんを、股引、前掛け、三助姿の男が出てくる。  丁度湯屋に入ろうとしていた母子とすれ違って、男がにっこり微笑むと、母子は頬を染めて喜声を上げた。娘の方など、恥ずかし気に身をよじっている。  伊吉、というその男はなかなかの美男子なのだ。すっと通った鼻梁、常にうっすら微笑んでいるような唇、切れ長の目、まるで役者の様な顔立ち。  すらりとした輪郭を描く体つきだが、むき出しの両腕を見れば、みっしりと筋肉が張っている事が解る。  伊吉は、眉尻を下げた憎めない笑みで、遅くなった事を謝罪してきた。    「でも親分、よく俺が帰ってきているって解りましたね」  「お前、どれだけ自分が目立つと思ってんだ。うちの長屋のかかあ達も、お前が帰ってきたらしいと、色めいてやがったぞ」  「ありゃ、流石に奥様方の噂は早い。  でもねえ親分。これでも真っ先に、親分に挨拶に行くつもりだったんですよ?」  ――――嘘つけ。  溝底の酷い匂いがした。  親類が病を患ったとかで、しばらく江戸を離れていたはずだが、それだってどこまで本当だか。  「嘘つけ」  実際に口にもついて出た。  「嘘じゃないですよ。親分は俺が江戸で一番尊敬する人なんだから。いや、この国で一番尊敬するお人だな」  忠左は臭いを振り払うように手で扇ぐ。少し前の忠左なら、こんな見え透いたおためごかしにも、有頂天になれたのだろうが・・・  人の嘘が解るようになってしまえば、そのお調子ぶりに乗ってやる事もできない。  視界の端で、何やらお初の白い肢体が蠢いているのが見えた。その様が先ほど恥ずかし気に身をよじった、娘の姿が重なって、―――お前もか、と心の中で呟く。  「で、わざわざ親分の方から、俺を訪ねて来てくれたってことは、お上の御用ですかい?」  腕がなるなぁ。なんてまた心にもない嘘。  伊吉が調子の良い男なのは知っていたが、こうも嘘ばかりとは思わなかった。  長くこの男を下っ引きとして使っているが、それを見抜けなかった事に少々落ち込む。  だが、伊吉を頼るのを、止めるわけにはいかなかった。  伊吉は有能な男なのだ。何事も器用に立ち回り、柔和な態度で相手の懐に潜り込んで、あっというまに目当ての情報を仕入れてしまう。腕だって立つ。伊吉に動いてもらわなければ、忠左の仕事は幾何も成り立たないだろう。  鈴木も伊吉には一目置いていて、実のところ、鈴木が忠左を未だ見放さないのは、自分の下に伊吉がいるからだろう、と半ば確信していた。―――そのうち鈴木は伊吉に手札を渡すのだろう。彼が独り立ちすれば、忠左よりもよっぽどうまく立ち回るはずだ。  伊吉に対する小さな嫉妬を押し込んで、忠左は井筒屋の件を説明してやる。  最初こそ、口元を微笑ませて聞いていた伊吉だったが、赤子が犠牲になったと聞いて眉を寄せた。  「子供を手にかけるなんざ、酷ぇ奴がいたもんですね」  ――おや。と忠左は目を瞬かせた。ここまで嘘ばかり口にしていたのに、この言葉には悪臭が伴わなかった。  「それで俺は、井筒屋周辺の聞き込みをすればいいんですね?」  「ああ、頼む」  「任せてくださいよ、親分。子供が犠牲になったなんざ許せねえ。  でもまあ、忠左親分なら俺なんかの情報を待たず、ちゃっちゃと解決できてしまいそうですね」  伊吉は何とも心地の良い笑みを浮かべた。  忠左はそっと鼻を抑える。―――そうかい、そういう風に思っていたのかい。  忠左は小さく首を振った。・・今更だ。誰よりも己の凡人さを忠左は自覚していた。 乗ってこない忠左に、伊吉は「おや」と首を傾げたが、すぐにまた笑みを戻した。  そうだ。伊吉に任せておけば万事問題ない。忠左よりうまくやってくれる。情報もすぐに集めてくれるだろう。これで、忠左にできる事などなにも無くなった。  一応鈴木の手前、適当な時な適当な聞き込みをすれば十分だ。  あとは井筒屋先代の息子が戻ってきた時に、鈴木から呼び出しがあるだろうが、役に立てる事などそれぐらいだ。
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