一章:嘘を嗅ぎ別ける男

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 伊吉と別れて、下谷町にある自宅への帰路を歩きながら、忠左は向けられる視線に居心地悪く腰を曲げた。上野町の角を曲がれば、みすぼらしい風体でも、己が『倶生人』の忠左だと知る者は多い。  「お疲れ様です」と、左官の男が頭を下げる。商屋の旦那が片手を上げて挨拶してくる。  わざわざ木戸から出てきた中年の女が、先日の礼だと言って、魚の乗った笊を差し出してきた。――それを辞せば、むしろ「流石親分、仁義の人」と褒めそやす。  耳に入る忠左の噂話は、おおむね好意的だ  「池之端仲町の話、聞いたかい?」―――ああ、もう広まっている。  「今も大きな事件で、頼りにされているって話だ」――井筒屋の件か。  「少し前も、大泥棒をいいところまで追いつめたって噂だよ」――そんなとこまでいっていない。  ああ、嘘だ。嘘だ。嘘っぱちだ。  嘘を見抜く眼力の持ち主。仁義の人、やり手の目明し『倶生人』。  人々から向けられる視線。尊敬の言葉に嘘が無い事は、今の忠左には分かってしまう。  だが、その向けられる対象の忠左は見事に大嘘なのだ。皆が称える、嘘を嗅ぎ分ける力だって、本来は忠左のものではない。  今だって、視界の端にお初が映る。少し視線を上げれば、憎々し気にこちらを見下ろす隻眼とかちあって、慌てて顔をそむけた。――――忠左のせいで死んだ女。  そうだ、これこそが忠左の真実。  忠左は全力で駆けだした。そうすれば、嘘を見つめる町人の視線は背後へと流れていく。  だが、真実からは逃れられない。――頭上に浮かぶ、水死体の怨霊。  お初に対して罪悪感はある。だがそれ以上に恐ろしい。  数多ある男女の怨霊話において、その結末は大抵元凶の男が無残に呪い殺されて終いだ。  だが、忠左にそれを受け入れられるだけの度胸は無い。全く無い。  ただひたすら、真実が怖かった。お初が怖かった。死にたくなかった。恐ろしかった。  駆けて、駆けて、駆けて―――。  忠左は己の住む長屋に駆け込んだ。その、自宅が見えてきたところで、忠左の体はぎくりと固まった。  十歳ほどの少年が、忠左の家の前に立っていた。  六松。井筒屋の丁稚であった少年。お初が見えるのではないかと、忠左が疑った子供。    六松は忠左に気づいて、そうしてあの時のように忠左の頭上を見上げて  ――ニヤリと笑った。  頭のてっぺんから、真っ暗闇の地獄に落ちるような、そんな心地がした。
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