倶生人ー序ー

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 草木も眠る丑三つ時――だというのに、忠左は眠れぬ瞼を重々しく開いた。そうして頭上を浮かぶ女にもう何度目か・・・呼びかける。  「お初・・・」  すでに、見慣れた姿だ。真っ白な肢体が、深夜の明かり一つ無い部屋の中でも、はっきりと目に映った。  血の気が抜けた肌は、あちこち皮がめくれて、べろりと垂れさがっている。水気を吸って、全身ぶよんぶよんにふやけ膨れ上がった体を、大の字に広げて忠左の上を浮いていた。――水死体だ。女の、水死体。  布団の中の忠左を見下ろす目は白濁している。しかも左は潰れてしまっていた。左足なんか、変な方向に曲がっていて、中の骨が覗いている。――川底で打ったのか、魚に食われたのか・・・。  その凄惨な姿は、瞼を閉じてもその裏に焼き付く程で。彼女の姿に苛まれて数か月、忠左がまともに眠れた記憶は遠い。  「お初よう」  べそべそ、めそめそ。忠左は女の顔を見上げて泣く。三十路を超えた、良い歳をした男が、恐々と全身を震わせて泣くのだ。  一方の女は、何も言わないし、何もしない。ただ、白濁した隻眼で、忠左を見下ろすだけだ。  水気を吸いすぎて膨れた姿には、かつて美人画にも描かれた彼女の面影は残っていない。 風も無いのに波打つ、解けて乱れた黒髪。そこにかろうじて絡まった真っ赤な玉簪だけが、唯一、この亡霊がお初であるのだと――忠左の妻であるのだと主張している。  「すまねえ・・・すまねえ、お初ぅ」  いくら謝っても、お初の亡霊が消える事はない。ふよふよ、ぶよぶよ・・・そのふやけた体を小さく震わせながらただそこにいるだけ。ぼんやり開いた唇が動く事もない。  「すまねえ」  解っているのだ、本当のところ。どれ程謝罪したところで、お初は許してなどくれまい。お初が死んでから数か月。ずっと彼女の亡霊は、昼も夜もなく忠左に付きまとう。  その恐ろしくも惨たらしい肢体をさらし、白濁した目で憎々し気に見下ろしてくるそのワケを、忠左は誰よりもよく理解していた。  なぜならば、お初を殺したのは紛れもない――忠左本人なのだから。
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