一章:嘘を嗅ぎ別ける男

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一章:嘘を嗅ぎ別ける男

 ――江戸下谷。  徳川将軍家の菩提寺たる寛永寺。その裾野に広がるこの土地は、かつては田んぼと畑だけの、超がつくほどの田舎であったという。  だが現在、右を見ても左を見ても、その面影を見つけられる者はいないだろう。  江戸三大広小路の一つに数えられる、下谷広小路に立ち並ぶのは、松坂屋を始めとする大店の数々だ。  道を行くのは、上野に数多ある寺院への参拝客が殆どだが、ふらりふらりと店の中へ吸い込まれていく者も多い。  また、そんな参拝客をあてにして、「よっけやい、よっけやい」「あめ~、あめ~」と棒手振りが声を張り上げ、子供達が群がっている。  駕籠屋が器用に人の群れを避けて駆け、車引きの威勢よい声が響けば、その後ろをのろのろと、やや頼りなく大八車が進んでいく。  乳母傘で、しゃなりしゃなりと歩く娘は、不忍池沿いの料亭にでも行くのか、めかしこんでいる。  其処此処から談笑が聞こえ、人々は噂話など興じていた。  特に最近江戸注目の話題といえば、大盗『翁面』の悟助の件だ。  定期的に江戸を荒らしにくるこの大盗が、前回、名うての岡っ引きに塒を突き止められそうになり、京に逃げ帰ったというのは瓦版にもなった。  しかし最近その『翁面』を見たと言う噂がどこからか持ち上がって。今では、どこそこの店を狙っている。例の岡っ引きとの再戦はどうなるか。と人々は期待半分に話題にする。  日本橋、両国橋の賑わいには及ばぬかもしれないが、それでも今日も今日とて、この地は活気に満ちていた。  下谷広小路をまっすぐ北に進むと、大半の者が目当てとする、寛永寺の長い階段が見えてくるが――ふら、と幾人かは不忍池を西へと逸れていく。  茶屋や飯屋が並ぶ池之端仲町の、おそらくは色茶屋を目当てとする男達だろう。  人が集まれば、それだけ商売の幅も広がる。ただ、人が集まれば集まるほど、風俗的な事が絡めば絡むほど、それは厄介事とも切っては切り離せない関係になる。  ――ああ、ほら。・・・ほら、ご覧よ。  物見高く、噂好きな江戸の人間が、傍目には我関せずのふりをして、けれどもその耳穴かっぴろげて意識を向ける先。  よくある水茶屋。・・に、見せかけただけの立派な風俗茶屋であろうが。その店先で男が二人睨み合っていた。若い職人風の男と、壮年の商人。壮年の男の後ろには、若い女が庇われている。
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