啓一郎・2

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啓一郎・2

 目が覚めたらお昼を過ぎていた。昨夜は自分でベッドに入った記憶がなかった。  昨日は、どうしたんだっけ……まだ頭がぼんやりとしている。  顔を洗い、着替えをしていると少しずつ頭が起き出してくる。  昨日は……ああ、俺が慎二の足枷になってるかもしれないって話をしていたんだ。  父さんはまだわからないと言っていた。結果を知らなければいけない。知りたくない。俺がいるばっかりに慎二が苦しむなんて事になるならば……。 「啓、昨日はごめんなさい……あなたがきっと夜寝られないだろうからって薬を飲んでもらったの」  母さんが俺にネイプガードを着けながら申し訳無さそうに謝ってくれた。  あんな話を聞いてしまったら……きっとその通りだ。眠れる訳がない。  母さんに小さい声でありがとうとお礼を言った。 「父さんは……慎太郎さんの所に行ったの?」 「ええ、今日は向こうに一泊して明日帰って来るわ」 「……そう」  慎太郎さんに昨日の話をする……それはきっと慎二にも話すという事だ。  それを聞いてお前は怒るのだろうか、困るのだろうか、それとも……悲しむのだろうか。  誰かと番になったら国へそれを提出しなければいけない。それは婚姻届とは違う特殊なものだが同等の扱いになり、お互いを良くも悪くも縛り付けるものになる。  αとΩの普通の番でも、誰もが上手くいくとは限らない。普通に幸せな人達もいるけれど、元々愛のない中、性欲に負けて番になってしまった人達もいる。そんな彼らにとって、この国の決まりはどう捉えられるのだろう。  俺のお願いなんて事を聞いてしまったばっかりに、今慎二は苦しんでいるかもしれない。  もしも、俺が慎二の未来を奪っていたら……どう責任を取ればいいのだろう。  決して許してはもらえない。番という呪いをかけてしまったかもしれないなんて、どうしたら償えるのだろう。……俺がその呪いで慎二を苦しめているならば出来る事はひとつだけ。  俺が消えれば呪いも消える。 「母さん。俺、ちょっと出てくるね」 「どこに?」 「友達の所」  今は家に居たくなかった。  考える事はひとつだけだ。もしも慎二が苦しんでいたら……。それを考えるとすぐにでも自分で自分を消してしまいたくなる。でもそれは両親が苦しむ事になってしまう。  外ならばきっと踏み留まれる。  何処をどう歩いたかわからなかったけど、知らず知らずのうちに昨日入った喫茶店の前に立っていた。 「いらっしゃいませ」  昨日と変わらない笑顔で店員さんが迎えてくれる。  今日もお客さんが誰もいなかった。大丈夫なのだろうかと少し心配になった。 「コーヒー下さい」 「はーい」  昨日と同じやり取りに何だか少しほっとして、なんとなく昨日と同じ席に着いた。  この席で、昨日までは辛くて寂しいけど慎二が幸せだといい、と思っていたのに。今日は俺が慎二を苦しめているのかもしれないという考えに縛り付けられている。  父さんが戻ってくるまでは何もわからないのに、焦燥感に囚われている。  逃げたから終わり、じゃなかった。  慎二に迷惑を掛けるなんて一番したくなかった。それが嫌だったのに。  もしかしたら俺と慎二が番かもしれないという。βの慎二にそんな事が出来る筈がない。αの本能を慎二はわからないのに。  でも、もしそれが本当だったら。  慎二、俺なんかに囚われないで欲しい。でも本当は俺だけに囚われて欲しい。  ああ、もう頭が混乱して何が何だかわからない。 「お待たせしました」  テーブルに店員さんがコーヒーを持ってきてくれた。そしてその横にはまた小さいタオルを添えて。  思わず店員さんを見上げると 「どうぞ、ごゆっくり」  そう言ってただ微笑んでくれた。  優しさが詰まったそのタオルに視線を落とす。 「あの、俺……」 「はい」 「俺……ここに逃げてきたんです」  何故か俺の口からするっとそんな言葉が出ていた。 「傷つきたくなくて、嫌な思いをしたくなくて……」  店員さんは横で俺の呟く様な話を聞いてくれている。俺は俯いて、タオルを見つめたままだった。 「怖くて恐ろしくて……逃げてしまったんです。……俺、大事な人がいたのに、あいつに黙って逃げてしまった。その時俺はその人の事考えないで……いつも、あいつは俺を心配してくれて……なのに、俺の最後の我儘も叶えてくれて……」  一度溢れ出すと言葉が止まらなかった。家族にも言えなかった心の中のぐちゃぐちゃした思いが崩壊して、そのまま零れ出していく。 「俺は、ズルくて……幸せな気持ちをもらって、それだけを抱えて逃げたんです。だから今会えない事が寂しくても辛くても、自分が決めた事だから我慢しなきゃいけなくて……ずっと辛くて、会いたくて……でも会えなくて。俺はもう、会っちゃいけないから。俺がいる事で、俺が苦しんでいる事で、それで慎二が苦しんでしまうのは嫌だった。慎二はβで、俺の気持ちは受け取ってもらえない。……だけど好きで……αとかβとか関係なく好きで……。慎二は優しくて、俺が辛い目に遇ったと知ったら怒ってくれて、それも嬉しくて……。でも、俺はαが怖くて……結局逃げて……」  いつの間にか店員さんは俺の横に座っていて、タオルで俺の目元をそっと拭ってくれた。店員さんを見ると何も言わないでただ優しく微笑んでくれた。 「昨日、俺の我儘で慎二が苦しんでいるかもしれないと知ったんです……俺は逃げて、慎二から離れて終わりだけど、慎二の人生を俺が捻じ曲げているかもしれないって……そう思ったら怖くて、申し訳なくて……でも、ズルい俺は少しだけ嬉しくて、俺に囚われて欲しいって卑怯な事を考えてしまって……もう、何だか頭の中がぐちゃぐちゃで……」 心の澱を吐き出す俺を店員さんがそっと抱き締めてくれた。店員さんの持っている優しい香りがΩ特有の甘い香りと混ざって俺を包んでくれる。 「でもそれで慎二に俺が呪いを掛けてしまったかもしれなくて……苦しんでいるなら早く解放してあげないと……でも、それをすると、今度は両親を苦しめる事になってしまうから……もう、どうしていいのかわからなくて……」  今までずっと頭の中で混沌としていた思いを最後まで掻き出してしまった。自分でも整理出来ない色んな思いが溢れてしまって止まらなかった。  誰かに自分が思っている事を話したのは、初めてのヒートの時に慎二に聞いてもらった以来だった。 「あなたは、頑張ったんですね……いっぱい我慢して。誰にも言えなかったのは苦しかったでしょう?」 「……苦しかった、けど言えなかった。だって俺が逃げる為に両親に沢山迷惑を掛けてる。今日だってその事で父さんにまた迷惑を掛けてるから……」 「辛い思いは溜めると毒ですよ。誰も聞いていませんから、ここでその毒を全部吐き出してしまいなさい」 「う……ふうっ…っ、うぅっ……ううぅぅー……!」  包みこむ様な優しい言葉と、背中を優しく擦ってくれるその暖かさに、俺の涙は崩壊してしまった。 「……すいません。俺、ここでも迷惑を掛けて……」  あのまま暫く店員さんの胸の中で思い切り泣いてしまった。  俺が落ち着いた頃、店員さんは新しくコーヒーを淹れ直してくれて、もう一度俺の隣に座り直した。 「迷惑じゃありませんよ」 「だって……俺、仕事の邪魔して迷惑を掛けてる」 「仕事?あなた以外誰もいないのに?」  そういえば、俺が来る前も今も、誰もお客さんはいない。昨日だってそうだった。 「迷惑なんて事はありません。逆にもっとあなたにはお店に通ってもらいたい位です」 「……そうなんですか?」 「はい。誰も来ないお店は寂しいですから」 「こんな、いいお店なのに」 「ふふっ、ありがとうございます」  微笑む店員さんが本当に嬉しそうだったので、俺の口角も少しだけ上がった。 「コーヒー、冷めないうちに飲んでくださいね」 「すいません、わざわざ淹れ直してもらって……」 「いいえ。召し上がれ」  店員さんに促され、温かいコーヒーを一口飲んだ。 「……美味しい」 「良かった」  その温かいコーヒーは俺の中の凝り固まっている色んな思い迄解きほぐしてくれる様だった。 「わからない事は想像したところで結局わからないんです。結果が出てからゆっくり色んな可能性を考えた方がいいと思いますよ」 「……はい」  言われてみれば俺が考えている事は『かもしれない』事だった。父さんが確認しなければどんな結果になるのかわからない事なのだ。 『慎二と番になったかもしれない』 『慎二が俺に囚われているかもしれない』  あくまでも予測だ。  俺の中の嫌な部分がそうあって欲しいと願うから余計に俺は焦っていたのかもしれない。結果によっては今までと変わらず、慎二の幸せを願う日々が戻ってくるだけなんだ。  それは俺にとってはやっぱり辛いし苦しいけれど、いつもの日常に戻るだけだ。 「……そうですね。ありがとうございます」  店員さんは俺の頭を優しく撫でてからカウンターに戻って行った。  結果を待とう。店員さんの言う通り、今は考えないようにしよう。コーヒーを飲みながら店員さんの言葉を噛み締めた。  泣きはらした目元も店員さんが用意してくれたタオルで何とか落ち着き、家に戻ったのは昨日と同じ位の夕方だった。  玄関には叔父さんの靴があった。  今日もお嫁さんは来ないんだな、なんて思いながらリビングに入ると母さんと叔父さんが重い空気を纏ってソファーに座っていた。  もしかして、父さんから慎二の事で何か嫌な報告があったのだろうか。一瞬最悪の可能性を考えた。  いけない。結果を聞いてから考えないと。さっきそう決めたばかりなのに。 「た…ただいま」 「啓!」  この空気がどういうものかわからなくて緊張して声をかけると、二人は驚いてビクッと身体が動き、反射的に俺を見る。その視線はとても苦しそうなものだった。  もしかして……俺の心臓がバクバクと音を立てる。 「ど……どうしたの?」 「今ね、お父さんから連絡があって」  母さんは立ち上り俺の事を抱き締めて来た。嫌な予感が胸を締め付けてくる。何?まさか……。 「慎二君、さっき……入院したって」 「え……?」  思ってもみなかった言葉に頭が真っ白になった。  慎二が、にゅう、いん……にゅういん? 「な、んで……?」  慎二が入院?何で?何かの病気!? 「今朝お父さんが春海ちゃんの所に行った時、慎二君階段から落ちて怪我をしたらしいの」 「え?階段から?」 「腰を打ってちょっとこめかみを切ったそうよ」  ……何してんの慎二。階段から落ちるなんて……朝弱いから寝ぼけてたんだろうか。もう、バカだなぁ。  母さんの言葉に、思っていた程の事じゃ無さそうで良かったとホッとしていると横から叔父さんが言い辛そうに口を開いた。 「まぁ、それは全然大した事じゃないんだけど……入院の直接の原因は別にあるんだ」 「……叔父さん?」 「落ち着いて聞いてくれ……」  真剣な叔父さんの言葉に、嫌な予感がして息を詰めた。 「あのさ、一年位前……だったかな。高校生がΩの男の子を殺して捕まった事件があったのを覚えてるか?」 「事件……?なんだっけ。あ、そうだ。何か親が定期的にΩを子供に与えて、何人も暴行して……いたって、ニュースで……」  その事件を思い出しながら話していると、急にあの蛇の様なαの同級生を思い出した。  あの気持ち悪いαの男はいつもべっとりと自分が蹂躙したΩの匂いを纏っていた。  消える事はなく、気付けばまた新しいΩの匂いを取り込んでどんどん蓄積されていく濁ってどんよりとしたΩの匂い。  血の気が引いていく。  あれが、何……?今何の関係がある……?  叔父さんは俺の様子を見て、小さく頷いた。 「あの事件で捕まったのが、お前に纏わり付いていた木場だ」 「……で、でもっ、慎二はΩじゃないよ……!」  あの男が常に身に付けていたのはΩの匂いだった。慎二の様なβの匂いなんて無かった!だから慎二は関係ない……!この話が慎二に繋がっていて欲しくない。お願いだから……。 「慎二君はね、ずっと木場から暴力を受けていたそうなんだ」  あれが、慎二に暴力を……? 「それが今身体に悪影響を与えていて、慎二君はそれで入院したそうだ」  急に身体中の力が抜けて立っていられなくなり、崩れ落ちそうになった。それを母さんと叔父さんが横から支えてくれる。でも俺はそんな事構っていられない。 「なっ……なんで……?なんで慎二が……!?」  どうしよう!慎二がそんな事になっていたなんて知らなかった。あの男からそんな酷い目に遭っていたなんて!ずっとって何!?何であいつは慎二の事を……!?  俺の身体は芯から冷えてかたかたと震えだした。何で!?どうして!?疑問ばかりが頭を飛び交う。 「お前がいなくなってからだろうって兄さんは言ってた……」  叔父さんは苦しそうに告げた。 「何!?それじゃ慎二がそんな目に遭ったのは俺のせい!?俺が黙って消えたから!?だから慎二はあんな奴に」 「落ち着け啓!」  叔父さんが俺の肩をガクガクと揺らして俺の言葉を止めた。  そのまま叔父さんは震えを止める様に肩をきつく押さえた。 「落ち着け……大丈夫だから」 「何が大丈夫なんだよ!?慎二は入院してるんでしょ!?」 「兄さんと慎太郎さんがついてる」 「だから何!?だからって慎二が傷ついた事実は消えない!!」  慎二が俺のせいであいつにボロボロにされたのか!?俺が逃げなければ慎二をそんな目に遭わせなくても済んだのか!?そんなの俺が慎二に暴力をふるったのと一緒じゃないか!! 「啓……会いに行く?」  興奮している俺に、急に母さんが小さく声を出した。とても辛そうに。 「え?」 「お父さんから、啓が来れるなら来て欲しいって……」 「行く」 「でも……大丈夫なの?あの町はこことは違うのよ?αだって沢山いるのに……」 「行くよ」  母さんが俺を心配しているのはわかってる。でも今はαがどうとか関係なかった。ただ慎二の事だけが心配だった。暴力を受けた傷の具合はどうなんだろう。入院するって事はそれだけ酷い目に遭ったんだ。  兎に角今は自分の目で慎二の事を確認したかった。 「じゃあ、今から行くぞ」 「うん」 「啓!?悟さん、そんな急に……」  母さんは俺の事を心配しておろおろと焦りだした。  ごめん母さん。今は俺の事なんかより慎二の方が心配なんだ。 「義姉さん、啓は大丈夫だ。俺が車を出すから義姉さんも行こう」 「啓……本当に大丈夫?」  俺は母さんの質問に、はっきりした意思をもって大きくひとつ頷いた。  叔父さんの車で懐かしい、忌まわしい記憶のある町へと向かう。一分でも一秒でも早く着いて欲しいのに、車は一向に着かなくて気持ちばかりが焦る。  それだけ遠くに、慎二からとても遠くに来てしまったんだ。  逃げた事は正しかったのだろうか。それとも……。 『結果が出てからゆっくり色んな可能性を考えた方がいいと思いますよ』  ふと、さっきの店員さんの言葉を思い出した。  いや、まだ答えは出ていない。  慎二に会って、話をして……答えを出すのはその後だ。焦っちゃいけない。先走っちゃいけない。  早く慎二に会いたい。  車の中で俺はそれだけを考えた。
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