止まない雨を蹴飛ばして

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 ……目が合ってしまった。  閉店したカフェ前の路上で、僕は後ずさりをした。正面のレインコート男が笑う。袖口から光っているのはナイフだ。  彼があの『傘破り』だろうか。  朝から雨が降り続いている。アスファルトが黒い海蛇のようにぬめっていた。街も空気も仮死状態で、明日が来るのかさえ怪しい。カフェに明かりが灯っていたころは、こんな日でも優しい時間が流れていたのに。  左手にある二階建ての商業ビルは、二階に釣り用品店が、そして一階にはカフェがあった。今では二階のみ営業しており、一階は閉店している。オーナーは八十になる僕の祖父で、いつも笑顔だった。あの事件が起こるまでは。  男は突進してきた。  たなびく白のレインコートは幽霊のようだ。雨を切ってナイフが迫る。動転した僕が背を向けたときには、もう遅かった。  濡れたアスファルトに引き倒される。  泥水が勢いよく跳ね上がり、右手からはビニール傘が薄情な犬のように逃げた。転倒の痛みを味わう間もなく首が絞まる。ポロシャツの襟を後ろから思い切り引っ張られたのだ。 「く、るし……」  身をよじって見上げる。僕より小ぶりな手で口を覆われて声が出せない。男は貧弱な僕よりもさらに小さいが、体勢が不利だ。足をばたつかせて手への意識を薄めさせ、小指を右手で握る。  やむを得ず反対側にへし折ろうとした瞬間、男が言った。 「お前か」  目深に被ったフードから雫が垂れる。僕よりもひと回りほど年下に見えた。手足は長いが顔つきは幼い。中学生だろうか。 「あの店に嫌がらせをしたのはお前かと訊いてる」 「君じゃなかったの?」  頬の数ミリ横で、折り畳みナイフが威圧している。 「僕はそのナイフで『傘破り』してたのかと思ったんだけど」  まだカフェが営業していたころ、傘立てに立てられた客の傘が破かれるという悪質ないたずらがあった。外に置いてあった傘立てを店内に移動するも変わらない。常時人の目に晒されているはずなのに、傘の持ち主が帰るころには破れているのだ。そういうときは決まって、一度に二、三人が被害に遭った。  五度目の被害で閉店が決まった。 「傘のせいじゃない、潮時だったんだよ」――その言葉とは裏腹に、祖父の声は寂しげだった。僕がこれを知ったのは昨晩、久しぶりに電話で近況報告をしていたときのことだった。  だから、こうして現場を確認しに来たのだが。 「なんだハズレか」  レインコートが舌打ちをして僕から退いた。謝罪はしない主義らしい。ようやく身体が自由になったので、様子を伺いつつ立ち上がる。 「君、オーナーの知り合い?」 「弟子だ」  随分年の離れた師弟関係だ。 「うちの祖父は弟子を取るような趣味はやってなかったと思うんだけど」 「あんた俺の弟子の孫なのか」 「ちょっと待って、逆?」  少年がポロシャツの裾を引く。祖父のカフェの軒下に移動したいらしい。 「あそこで話そう。ここじゃ濡れる」 「君さっき僕にしたこと覚えてるかな?」  パンツの皺までびしょ濡れだった。  軒下に二人並び、形ばかりの雨宿りをする。フードをとった少年は、行動の割に可愛らしい顔をしていた。栗色の髪が子犬に似ている。 「それで、八十の祖父が君に何を教わってるって?」 「魚の種類。俺、図鑑が好きだから」  なんだそれ、という言葉を飲み込む。 「……ここで雨宿りしてるときに声かけられて、中に入れてくれて。俺が魚に詳しいってこと話したら、釣りを始めようと思ってるからぜひ教えてほしいって言われて、そこから。……ここで勉強させてくれたりとか、親が何日か帰ってこない日は、飯も……」  次第に声が小さくなり、俯く。恥じらうように告白する彼を見て、状況が読めてきた。  彼の家庭では親の存在が薄いらしい。おそらく、それを知った祖父は魚博士の弟子になりたいとでも言いだしたのだろう。少年のプライドを守りつつ、場所と温かいご飯とを提供するために。 「そっか、祖父がお世話になったね。僕は孫の羽村亮二で、閉店の話を電話で聞いたもんだからここに来たんだ。なんか原因が分かるかなあって」 「……水瀬(みなせ)(ゆう)」  ぶっきらぼうな自己紹介のあと、真っすぐに僕を見る。 「『傘破り』を見つけたら俺に教えろ。あんたのお爺さんの仇は俺がとる」  優の手の中でナイフがぎらついた。 「いや死んでないから」 「俺が犯人を殺す」 「傘破ったくらいで殺さなくても……」 「くらい、じゃない。犯人のせいで閉店にまで追い込まれたんだろうが。雨なら毎回ってわけじゃないから犯行日が予測できないし、傘立てを店内に移してもしつこくやられた。六月になってからは梅雨のせいで毎日そわそわして、常連まで疑心暗鬼になっていった」  まくし立てるように訴える。勝ち気な瞳に切実さが(にじ)んでいた。 「この店が大好きだった。客まであんたのお爺さんみたいに穏やかで、静かだけどあったかくて、場違いな俺でも当たり前に受け入れてくれた。それがだんだんお互いの腹を探り合うようになってったときの気持ち、分かるか。 今までは孫とか今日の晩飯の話とかしてた客が、誰が来たとき傘破りが出たのかで疑い合い始めたんだぞ」  祖父は老後の趣味で店を始めた。利益ではなくやりがいだった。だから、そんな状況になってまで続けたくはなかったのだろう。 それならいっそ、と閉めた気持ちは理解できる。 「傘はどんな風に破られてたの?」 「一本につき何カ所かがポツポツと。切られたんじゃなくて劣化して破れたって感じだった。やられたのはビニール傘だけだったし、変な薬品でもかけられたんじゃないかと思ってる」  ポロシャツを絞ると、乾いたコンクリートに黒い染みが広がった。 「ビニール傘だけってのがポイントっぽいね。昔は塩ビ製のもあったけど最近はポリエチレンばっかりだろうから、誰かが傘立ての前を通るときに何らかの溶剤をかけたって考えもできる。けど……」 「なんだよ」  優がむっとした声で先を促す。 「いや、相当限られてくるなあって。もともと耐薬品性が高い材質で、市販の洗剤とかはポリエチレンの容器に入ってるくらいだし」 「ネットで探せばなんかあるんじゃないのか?」 「トルエンになら溶けそうだけど、加熱しなきゃいけないからなあ。さすがに変な液体かけたあとに傘を温めてたらバレるでしょ」 「温めるどころか、傘に薬品をかけるところすら目撃されてない」  チノパンのポケットからハンカチを取り出す。やはり濡れていて、使い物にならない。 「全部で五回だったよね。それも二か月の間に。毎回雨の日だったの?」 「当然だろ、傘さして来るんだから」 「破かれた傘の持ち主は傘をさして来店してた? それとも、来るときはささずに閉じたままだった?」  優は生意気そうな口を閉ざし、雨音を聞くように視線を巡らせる。 「……毎回、被害者はいつも傘をさして、似たようなタイミングで店に来てた。土砂降りの日はなかったな。朝から降りっぱなしの日もなかった。『傘破り』が出るのはいつも、客が来店するちょっと前から雨が降り始める薄暗い日で……。三本も破られた後藤さんって人がいるんだけど、結構慎重な人で、雨の予報が出てない日まで持ってきてたんだけど、そのときも破かれてた。 あのときの被害者は後藤さんひとりだったな」  くしゃみをしながら考える。  被害者に共通するのは「来店時に傘をさしていた」「来店の時間帯」のふたつだ。 一方、発生時の状況は「土砂降りの日はない」「朝から降りっぱなしの日もない」「薄暗い」というところが共通しているという。 そして、雨の予報が出ていなかったときにもそれは起きた。 「雨自体に何らかの物質が混ざってたってのはどうかな。これなら店内に傘立てを移してからも続いたってことに説明がつくけど」 「それは俺や客も最初に気付いたよ。でも、それなら町中のやつらがそうなるだろ」  言いながら優がハンカチを差し出した。意外に可愛らしい水色のチェック柄のそれをありがたく受け取り、顔を拭く。 「だよねえ」 「破れたのはこのカフェの客だけだ。それに、さっきの話じゃ薬品かけた上に加熱しなきゃ破れないんだろ」  雨に濡れれば温度が下がるのは、今まさに僕の身体で実証されている。 それ以前に、誰にも見つかることなく傘を百度近くにまで加熱する方法など思いつかない。 「傘に虫が付いてたりとかは?」 「ムシってなんの?」 「カミキリムシなんかは小枝くらいなら噛み切れるらしいよ」 「さすがにあんなでかい虫が付いてたら目が弱い爺さんらでも分かる」  中学生に呆れられてしまった。 「そ、そうだよね」 「というか、小さかったとしたってここの傘ばっかり噛むのはあり得ないだろ。虫に呪われてるわけじゃあるまいし」 「小さい虫の呪いかあ」  ふと、脳裏にかすかな光が瞬いた。 「虫の呪い……虫の呪いね」  口に出して反芻する。つい口元がにやけた。優の目が「正気かこいつ」と訴えてくる。相手は未成年なので、変質者だと騒がれてはたまらない。 「呪えるってことは死んでるんだよね。……僕、そういう虫に心当たりがあるんだ」 「お、おう?」 「その前に、ここの二階はなんだったっけ」 「え……ああ、あの釣り用品店のことか」 「釣り!」  優が後ずさる。気にせず顔を近づけると、矢継ぎ早に質問を浴びせた。 「釣りならきっと、虫も使うね?」 「生餌だろ、使うよ」 「優君は虫に詳しい?」 「いや。でも生餌の種類くらいだったら」 「よし!」  勢いよく路上に飛び出す。見上げると、灰色の世界で『釣り具・えさのガマタ』と書かれたカラフルな看板がライトアップされていた。借りたハンカチで拭いた顔がまた濡れていく。 「あの店に行きたい。一緒に来て」 「傘破りと関係あるのか?」 「なかったら誘わないよ」  優は困惑気味の表情を引き締めた。顎を引いて軒先から出ると、フードもかぶらず祖父のカフェをあとにする。
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