止まない雨を蹴飛ばして

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 二階の釣具店には左脇にある屋外階段から行けるようになっていた。使う意味をなくしていた傘を片手に上る。  ガラス戸をくぐると、店内は様々な商品が整然と並んでいた。 「いろいろあるんだね」  釣りと言えば竿くらいしか思いつかなかったが、ルアーや針、バケツまで売っている。背の高い棚のあいだを通って進むと、一番奥にカウンターがあった。その右には大きめの窓があり、店内を明るい印象にしている。あの窓の下が、先ほど僕らがいたカフェ正面だ。  五十過ぎの太った男性店員が、カウンター内からはきはきとした声で出迎えた。 「いらっしゃいませ」  僕を見たとたん表情が硬くなる。異様なまでに濡れているのだから仕方ない。 「すみません、さっき転んじゃって。ところで餌はどちらですか」 「ああ、それは大変でしたね。こちらです」  カウンターの右わきには、コンビニでも見かける透明な保温ケースが設置されていた。その隣には、アイスでも入っていそうな小さい業務用冷凍庫がある。それぞれ虫の名前が書かれたボードが側面に貼られ、中には小さな容器が詰まっていた。 「どういったのをお探しですか? 海? 川?」 「ハチノスツヅリガを探してます」  店員が笑顔のまま首をかしげる。 「えっと、俗称みたいなのがあるのかな。ハチの巣に住んでる幼虫で、蜜蝋を食べる……」 「ああ、きっとハニーワームですね! うちではブドウ虫と表記してます」  声も身振りも大きい。随分と愛想の良い店員だ。 「前の店員さんじゃないんだ」  横で優がぼそりとつぶやく。 「前も来たことあるの?」 「だって、食わせてもらってばっかじゃ悪いだろ」  何か祖父にプレゼントを買ったらしい。照れくさいのか優は飛び切り渋い顔をした。  その表情に、思いがけず店員が反応する。 「すみません、うちの者がまた何がやらかしましたか?」 「えっ? いえ」  優が目を丸くして首を振る。店員は安心した様子で笑顔に戻った。 「それは良かった」 「何かあったんですか? 前の店員さん」  身を乗り出すと、店員が困り顔で広すぎる額を掻く。 「ちょっと前にバイトを雇ってましてね、大学生の。それができないやつで……苦情がすごくって、先週でやめてもらったんです」 「その方はどのくらいこちらに勤務されてました?」 「結局二か月でしたね。たったそれだけで苦情が十件以上来たんですから、ストレスでこんなに抜けちゃって」  笑っていいものか迷う。 「苦情というのは、どういった?」 「まさに先ほどのブドウ虫ですが、これが使いもんにならないと。こいつは生餌なんでこっちの冷蔵庫に保存するんですが、バイトが間違って全部冷凍庫に入れちゃったようなんですね」 「で、気づかずに売った?」 「そう、何日かあとにようやく気付いて冷蔵庫に戻したそうなんですが、そのときには生餌の癖に死んでるっていうね。まあ普通に取り扱っててもたまに死んでることはあるし、私もそのときはお袋のことでバタバタしてましてね、もともとお袋の病気で店を空けるためにバイト雇ったもんですから。 で、バイトが返品の客をクレーマーみたいに報告するもんで、私も本人も気づかないままそこからまた何件か」 「十件以上も苦情が来て返品処理をしたってことですね」  店員が大きく頷く。 「彼を信じて任せっきりでしたからね。なまじ人当たりが良かったのもあるし、親戚の子だったもんだから」 「返品された商品はどうされました?」 「バレないようにその都度全部処理したそうですよ、どうやってかは知りませんが。でもお袋が大変なときに店番してもらったのは事実なんで、弁償とまでは言いづらくてねえ。丸損ですよ」 「なるほど。ところでトイレはどちらに?」 「ああ、すみませんね。ここにはないんで近くのコンビニとかで借りてもらえますか?」  これで全てが繋がった。 「お話を聞かせていただいてありがとうございました、また乾いた服に着替えてから祖父への手土産でも買いに来ます。……最後にひとつ、そこの窓を開けさせてもらっていいですか?」 「え? まあ良いですけど」  首をひねりながらもカウンターから出てきてくれた。右の突き当たりにあるスライド式のガラス窓を開ける。雨の匂いに再会した。上半身を充分に窓の外へと出せるほどの高さがある。 「この下がちょうどカフェの出入り口になってるわけですね」  真下には緑色の小屋根が見えた。先ほど雨宿りをしていた場所だ。黒い粒のようなごみが点々とこびりついている。 「分かったのか?」  久しぶりに口を開いた優が目を輝かせる。 「多分、その困ったバイト君はここから虫を捨てたんじゃないかな。トイレは遠いし、持ち帰るのも嫌だしで。でもそのまま捨てたんじゃ、上から虫が降ってきたって苦情が来るよね、カフェのお客さんから。で、解凍してぐにゃぐにゃになったブドウ虫を潰して分からなくしてから捨てた。誰にも気づかれずに屋根を洗い流せるよう、雨が降るのを待って捨てるようにしてたんだろうね。夕方ならカフェの客にばれないと思ったのかなあ」 「は?」  不機嫌そうに口を尖らせ反論する。 「死んだ虫なら傘なんて(かじ)れないだろ。まさか、本気で虫の呪いとか言い出すつもりじゃないだろうな? あ?」  隣りで店員がぎょっとした顔をした。鋭利な罵倒が飛び出す前に弁明する。 「ブドウ虫ってのは生餌(いきえ)としての商品名みたいなもので、本当はハチノスツヅリガっていうんだ。名前の通り、ハチの巣に住み着いて蜜蝋(みつろう)を食べてる」 「だから何だよ」 「この蜜蝋の構造ってのがポリエチレンにそっくりなんだ。だからハチノスツヅリガの幼虫はポリエチレンも食べられる。ポリ袋に入れとくと穴をあけたりするんだよ」  だん、と優が足を踏み鳴らす。祖父との馴れ初めを語ったときより頬が赤い。 「だーかーら! 死んだ虫がどうやって傘食うんだよ!」 「食べられないよね」  噛みつく寸前の優の眼前(がんぜん)に指を一本立てた。 「僕はさっき『ポリエチレンを食べられる』って言ったんだ。齧れる、じゃない。この二つは似てるけど全然違う」 「……は?」  つり上がっていた眉の片方がわずかに緩む。 「食べられるっていうのはきちんと飲み下して消化できるってことだ。だから牛や馬は(わら)を『食べられる』。僕たちが藁を噛みちぎったり齧ったりしたところで『食べられて』はいないんだ。僕たちにはセルラーゼがないから」  沸騰寸前だった顔が、水でもかけたように冷めていく。 「ポリエチレンを食べるときに使われる消化酵素は、虫が死んだ直後に失活するわけじゃない。例えば今ハチノスツヅリガを殺したとしても、ペースト状になるまですり潰して傘に塗れば、穴は開く」  優はもう何も言わなかった。怒りで赤らんでいた顔は今や白い。口をかすかに開いたまま窓に歩み寄った。両手で、(きし)むほどに窓枠を掴む。 「……たかが、そんなことで」  まだ明確な悪意があった方が良かった。雨の日にナイフを持って待ち伏せしていたほどの彼だから、ストレートな怒りをぶつけることができただろう。ところが蓋を開けてみれば、面倒くさがりのアルバイト店員がミスを隠そうとしただけだった。ともすれば彼は祖父の店が潰れたことすら知らないのではないか。  優の拳が、行き場を失っている。
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