まるいこえで。

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2回ノック。 これが僕たちの合図。 タイミングが決まっているわけでもルールがあるわけでもなく、ふと思い立ったらどちらかの部屋に出向く。そしてどちらかのベッドになだれ込んでお互いの熱を晴らす。 何も言わずに行為を終えて、何も言わずに部屋を出て行って、何事も無かったかのように朝を迎える。 僕は先刻ルールがないとは言ったが、それでも前の晩にあったことを次の日以降口にしないという暗黙のルールのようなものはあった。 これが僕たちのルームシェアのかたちだ。爛れているとか気持ち悪いとか蔑まれたこともあるが、当の僕たちが気にしていないのだ、とやかく口出しされるような筋合いもない。この関係をセフレとかいうありきたりで陳腐な言葉で片付けてしまうのは容易であるが、僕はそんなに単純な関係ではないと思っている(彼女はどう考えているのかわからないが)。 現状にはそれなりに満足している。恋とか愛とか、小難しい定義に括られて生きるよりは、好きなときに好きなことをするこの関係の方が、僕たちの性に合っているのだと思う。 僕たちのこの奇妙な関係が始まったのは、もう4年も前の話だ。 大学の友達が主催した合コンに数合わせで僕も参加させられていて、そのとき彼女に出会った。周りがアルコールが入ってどんどん盛り上がる中、つまらなそうに携帯をずっといじっている姿が印象的だった。二次会にも参加せずに帰ろうとする彼女を僕が呼び止めたのだ。 綺麗な人だった。薄いアイラインで縁取られた目元は、付き合いで飲んだ酒のせいか少しだけ赤い。なんとなく儚さや脆さを感じさせる女性だった。 男性陣が会計を済まそうとしている傍で、自分が飲んだアルコール分だけの代金を置いた彼女は自分の荷物に手をかけた。無口ではあったが一番の華である彼女がいなくなるのは男性陣にとっても痛手だったのだろう、代金を払わせまい、帰らせまいと四苦八苦していたようだが、彼女は「明日も一限からあるから」とこれまた綺麗な声音で困ったように眉尻を下げながら笑った。 店の外に出てやっと友達は諦めたようで、二次会に参加する組は笑いながら次の店に向かった。なぜそれを見送っているかというと、僕自身は飲みすぎたせいか少し体調が悪くて、二次会は遠慮したのだ。 友達たちの姿が見えなくなって少しして、彼女はじゃあ、と小さく会釈をした。 その腕を掴んだのは、ただの気まぐれだったか無意識だったか。とにかく僕はなんの考えもなしに彼女を引き留めてしまった。びっくりしたようにこちらを見つめる彼女。 「えっ、と…」 不審気な顔で首を傾げる彼女の腕をつかむ僕の手のひらに熱がこもる。ぐっと感触を確かめるように握り直しながら、 「あの、今引き留めなかったら君が消えてしまう気がして」 口から出たのは訳の分からない台詞だった。今どきドラマでもこんなクサい台詞を吐く者がいるだろうか。手のひらに集まった熱が一気に顔にのぼって、僕は慌てて手を離した。 目を見れなくなって、視線を宙に彷徨わせる。 当の彼女はといえば、きょとんとした顔で僕の顔をまじまじ見つめたあと、喉の奥で小さく笑った。 「つまらないんだと思ってた」 「え?」 「すごいつまらなそうな顔して携帯いじってたから」 不覚だった。それなりに楽しんでそれなりに女の子も品定め(というのもあまり良くないが)して、会話にも参加していたつもりだったのだが。彼女にはそう見えなかったらしい。ただ本当に楽しんでいたか、と問われると答えに窮してしまうため、僕は彼女に核心を言い当てられたのかもしれない。 「僕もそう思ってた」 僕としては彼女の方がつまらなそうにしていると感じていたのだ。少しの皮肉も込めつつ、素直にそう伝えた。 「えー、私楽しく参加してるように見えなかった?」 いたずらっ子のような顔をしてそう問うてくる。頷けば、彼女は僕の方に向き直って僕の腕をおもむろに掴んだ。反射的に彼女の目を見てしまう。 瞬間、息が詰まった。 あんなに冷めた目をしていた彼女の目があまりに熱を帯びていたから。吸い込まれるように目が合って、逸らせなくなった。 「わたしたち、同じだね」 囁いた彼女は何に対して一緒、と言ったのか。その本心は彼女にしかわからないが、とにかく僕たちは熱っぽい視線を交わしあった。 その後はどちらからともなくそういう流れになった。たまたま近くだった僕の住んでいるワンルームのアパートに場を移して、一夜を明かした。熱を貪り合うかのようなその夜に恋情などなかったし、言葉も要らなかった。 別にこうなることを望んで参加した合コンではなかったのだ。一度きりであろう夜が開けていくのをカーテンの隙間から眺めながら、ああ、明日の講義はなんだったか、と僕は場にそぐわないことを考えていた。 そんな僕の予想に反して、僕たちの関係は4年経った今でも続いている。たまにご飯を食べに行って、たまに飲みに行って、そしてたまに身体を重ねる。大学生のうちはそうやって過ごした。 僕と出会う以前のことはわからないが、とりあえず僕たちの出会いの場であったあの合コンよりは、彼女はよく笑うようになった。 あのとき合コンに参加していた友達にふとした拍子でバレて、羨ましがられることもあった。彼らはきっと僕達は付き合っていると思ったのだろう。そんなお粗末な関係でないと弁明するのも面倒で、僕は肩をすくめるだけに留めた。 大学2年のときに知り合ったため、僕たちは去年それぞれの就職先にに就職する運びとなった。 出会った時から4年経っても付き合うだとかそういう特定の関係にはならなかったけど、大学を卒業する時に住んでいるアパートを出ようと決めていた僕は、不動産会社を巡って物件を探していた。たまたまついてきていた彼女も、就職を機に一人暮らしを始めると言っていたので、流れるように僕たちのルームシェアが始まった。 流れで始まってしまうあたり、僕たちの関係みたいだけど。 光熱費も家賃も折半。2Kの古いアパートで、僕たちは静かに暮らしている。お互い入社したてで仕事が多く、帰りが遅くなるということもあり、僕達の生活に音や会話はあまりなかった。 最初の頃はそれこそ夜を共にすることもあったのだが、主に彼女の仕事が忙しくなって、その行為自体も遠ざかっていった。 僕たちはお互いの生活にあまり干渉しようとはしなかった。会えば挨拶はするし、たまにご飯を一緒に食べることもあったけど、それだけだ。思えば学生時代も、お互いがどこで何をしていようがあまり頓着がなかった。当たり前といえばそれまでだ。僕たちの関係は世間一般で言うところのセフレで、それ以上でも以下でもない。だから僕もほかの合コンに参加することもあったし(無論友達に殴られたのは言うまでもない)、彼女も彼女で他の男の匂いを纏わせていることもあった。その匂いに吐き気を覚えながら、その日も何食わぬ顔をして彼女を抱いた。 ここのところ、彼女は少し痩せたと思う。別に理由を問わなければならない義理もないが、いつだったか少し気になって聞いてみたところ、 「最近仕事が忙しくて」 と彼女は困ったように言いながら笑った。 僕は彼女のこの笑顔にめっぽう弱くて、いつも抱きしめてしまう。それは恋情というよりは母性というか、形容のしがたいものではあったが。 この時も同じように彼女の肩を引き寄せて抱きすくめたわけだが、僕はこの時彼女の細さに目を見張ったものだ。変わらず綺麗なままだったが、頬は少しこけ、肩は強く抱きしめれば折れてしまいそうなほど華奢だった。 その日から少しだけ、彼女と僕の間に会話が増えた。やはり踏み込んだ内容の話はしなかったが、会社での話、最近食べたものの話、そして出会った頃の話。そういう話を顔を合わせたらするようにした。僕の方からそうやって歩み寄ったのは出会って4年経つ中で初めてだった。 このまま消えてしまうのではないか、そんな馬鹿な考えが頭をよぎったのだ。そのおかげか彼女は少しずつ笑うようになったし、僕もそれが少しだけ嬉しかった。 エアコンの音がやけに部屋に響く。冷蔵庫から出して結露したビールをぐっとあおって、息を吐いた。 暑い。 都内は連日30度を超して、エアコン無しで生活するのは些か困難だ。今日も帰宅と同時にエアコンのスイッチを入れた。古いそれは少し不自然な音を立てながら作動する。ネクタイを緩めながら冷蔵庫に向かって、冷えたビールを取り出す。ここまでが毎日のルーティン。 自分のものに名前を書いたりする、なんて幼稚なルームシェアではなかったけど、冷蔵庫の中は何となく2つに分かれていて、僕のものと彼女のものはそれぞれに置いてあった。たまに意地悪で彼女の方のビールを取って飲んだこともあるが、彼女は何も言わなかった。次の日にはさも当たり前かのように僕のビールが1本なくなっていた。 そんなことを考えて唇の端が少し緩む。彼女のことを考えて笑うなんて僕らしくない。笑みをかき消すようにまた一口ビールをあおった。 僕より彼女の方が帰りが早いことはほとんどない。だから僕は今日もシャワーを浴びて、ベッドにもたれかかりながらビールを飲んでいた。 ドアを閉めているので定かではないが、微かに鍵の開く音のようなものがした。どうやら彼女が帰ってきたようだ。目線を時計に向ければ、22時を少し過ぎたところ。昨日よりは早いようだが、それでも入社2年目の人間にしては少し働きすぎなのではないかと思う。 いつもならこんなことはしないのだけれど、ドアを薄く開けて「おかえり」と言った。 「あ、ただいま!」 まさか声が掛かるとは思っていなかったであろうから、彼女も驚いた顔をしながら、それでも頬を緩ませて応えた。 「シャワー、先使ったよ」 「わかった。そのビール私のじゃないよね?」 「違うよ。これは僕の」 他愛もないというか内容がないというか、会話と呼べるかも定かではないほど軽く言葉を交わす。一旦部屋に引っ込んだ彼女が、いつも着ている寝間着を持って風呂場に消えるのを見届けて、僕もドアを閉めてまたベッドに体を預けた。 ふと目を覚ます。先程ベッドに横になってそのまま寝てしまったようだ。飲み終わったビールの缶は床に転がっていた。どのくらい時間が経過したのだろうか。微睡んでいたせいで時間感覚が狂ってしまった。霞む目を凝らして時計を見ると、23時半。彼女と会話していた時間を抜くと、一時間ほど寝てしまっていたようだ。 普段ならまだ起きている時間だが、このままもう一度寝てしまおうか、と目を閉じかけたそのとき。 コン、コン。 控えめに鳴らされた2回ノック。 睡魔が一瞬で消えた。この行為の意味するところははっきりとわかっているのだが、如何せんご無沙汰で、戸惑ってしまった。冷えた部屋とビールのせいで少しだけ頭が痛い。ゆるゆるとかぶりをふって、僕はドアの前に立った。 ここで僕がドアを開ければ、その先はもう言わずもがなだ。薄いドア一枚挟んで、僕は逡巡した。このまま何も言わなければ、彼女は僕はもう寝たものと思って自分の部屋に戻るだろう。彼女の身の疲れを案じてそうすることもできたのだが、僕も久しぶりだ。しかも彼女の方からノックをしてくるなんてことはここ数ヶ月なかったので、迷いを振り切って、僕はドアノブに手をかけた。 少し開いたドアの隙間から体を滑らせて入ってきた彼女は、あろうことか一糸まとわぬ姿だった。 狼狽。 僕らしくもないけれど、思わず手が止まった。いつだって彼女は恥じらって(4年も経った今でもだ)、服を脱ぐことすら嫌がる。アルコールが入っていれば話は変わるが、今はそんな様子でもない。 つまるところ彼女は素面でこのような行動をしているのだ。 恥じらいは完璧に捨てきれないようで、視線は落としているものの、いつもとは違うシチュエーションに僕も少しだけそそられた。 「シャワー、浴びたんじゃないの?」 「うん」 「汗かくよ」 わかりきっているのだが、僕も彼女に対して戸惑いを覚えているのだ。意味のわからない言葉を投げかけてしまった。彼女は視線をあげて僕の瞳を見ながら、 「わかってる」 と少しの怒気と少しの笑みを含んだ声音で答えた。 僕の部屋だというのに主導権は完璧に彼女にあって、僕はされるがままだった。エアコンがいつの間にか切れていたことにも気付かず、僕たちは久々のお互いの身体を貪りあった。 キスはしない。 それは最初から僕たちに共通していた。身体は繋げられてもキスは好きな人としかできない、なんてよく言ったものだ。僕は特に抵抗もなかったけど、彼女がそれを求めなかったから僕もわざわざしようとしなかった。 そして、「好き」という言葉も口に出さない。 僕は彼女の内面が好きな訳では無いし、彼女もまた同じだろう。わざわざその言葉を口にして関係を明確にしたくもない。僕たちはただ欲を鎮めあっているだけだから。そういう共通理解だった。僕はそのつもりだった。 暑くて、熱い。 火照った身体を冷ます術もなく、僕たちはただ身体を重ねた。 いつも通り行為を終えると、彼女は何を言うでもなくゆっくりと立ち上がって、腰を労わるようにしながら部屋を出ていった。僕もまた無言で散らばった服をかき集めて着直して、襲ってくる睡魔に抗うことなく眠った。 眠ってしまった。 僕は気付けなかったのだ。気付いていたら何かが変わっていたかもしれない。でも、気づくことが出来なかった。 次の日の朝、彼女は死んだ。 あまりに唐突で笑えてしまうくらい、簡単に命は失われた。僕は普通に起きて、普通に会社に向かったのに、彼女は死んだのだ。 何があったのか、僕自身まだよく解っていない。 9時過ぎに見慣れない番号から電話がかかってきた。僕は会議中だったためにそれを無視したのだが、ポケットに入れた携帯は何度も何度も震えた。会議が終わって携帯を見ると、10件以上の不在着信。 不審に思ってかけ直すと、市のはずれにある総合病院からだった。 僕は首を傾げた。怪我や倒れたりといった急用で、僕にこんなに何回も連絡がかかってくるような人間がいただろうか。幸い両親は未だに健在だし、どちらかが倒れたのならまずもう片方の親に連絡がいくはずだ。 それでも次に発せられた言葉によって、僕の世界は一気に色を変えた。 「彼女さんが亡くなりました。」 彼女の名前。亡くなった?どういうことだ。正確には彼女ですらないのだが、そんなことを否定できるほど僕の頭は冷静ではなかった。 理解が追いつかなくて、何度も同じことを問うた。それは本当に彼女なのか、と。答えは変わらなくて、電話の向こうの相手は無感情に同じ言葉を繰り返すばかり。 しばらくしてようやく、「死んだ」という事実だけがストンと心に落ちてきて、現実を呑み込むことができた。 「なぜ、僕に、」 連絡を、という言葉は最後まで紡げなかった。詮無いことかもしれないが、気になってしまったのだ。本来ならばすぐに会社を出て、彼女の元に向かうべきだろうが、あろうことか僕は会議室を出て、自分のデスクにもどった。 「彼女の携帯に入っていた連絡先が、あなただけだったんです。」 答えてもいいことか迷ったのだろうか、相手は少しの間を置いて、そう答えた。 「僕だけ」という言葉が、死んだという事実より重く心にのしかかった。頭を撃たれたような衝撃を覚えた。彼女が両親とあまり上手くいっていないとは聞いたことがあったが、だからといって連絡先の登録を僕だけにするほどだったのか。僕の見る限りでは、彼女はいつでも誰かの中心にいるような人間で、友達も多かったはずだ。 様々な疑問が頭の中を駆け巡る。しかし頭ではわかっている。こんなことをしているべきではない。病院に向かって彼女に会って、そうして彼女の親に連絡するべきなのだ。 どうにかそこまで考えて、ようやく僕は鉛のように重たくなった身体を引きずって、病院に足を向けた。 結論から言うならば、僕は彼女に会えなかった。というより会わせてもらえなかった。曰く「遺体の損傷が激しいため」。どうやら通勤途中に電車に飛び込んだらしかった。僕は無感情に「そうですか」とだけ呟いて、彼女の親に連絡をするために一度アパートに戻った。 いつもの動作で鍵を開けて、部屋に入る。彼女の匂いがした。彼女が生きていた証。彼女は昨日まで、さらにいえば今朝までここで生きていた。 ルームシェアを始めて2年目、初めて彼女の部屋に立ち入った。焦っていたのか昨夜脱ぎ散らかした服がそのまま転がっている。几帳面なはずの彼女の行動とは思えない。無論始めて入ったのだから、どこに何があるのかも全くわからない。ごめんな、と口の中で呟いて、僕は手当り次第部屋を漁った。 しばらく探してやっと、彼女の両親が彼女に宛てて送ってきた手紙を見つけた。僕がポストから取り出して、彼女に手渡した覚えがある。彼女はそれを一瞥して、封を開けることもなかった。本人の許可なしに手紙を開けるのには抵抗があったが、皮肉なことにその本人に許可をとることももうできない。申し訳程度にカッターで丁寧に封を開けて、中の紙を取り出した。 電話番号と住所と、これを読んだら連絡が欲しいとの旨。数ヶ月も前に送った手紙に対する返事が、まさか娘の死を告げるものだとは夢にも思わないだろう。 躊躇った。電話番号を入力して、通話ボタンに指まで掛けて、それでもどうしても押せなかった。しばらく部屋を歩き回りながら悩んだが、この現状を伝えられるのが僕しかいないのもまた事実だ。 意を決して掛ける。たった数秒のはずのコール音が永遠のように感じられた。携帯を握りしめる手がじっとりと汗ばむ。三度目か四度目のコールの途中で、相手が出た。 『どちらさまでしょうか?』 訝るような声。当たり前なのだが。 「あの、僕、娘さんの…」 言いかけて止まる。娘さんの、なんだ。彼氏ではない。じゃあありきたりにセフレとでも言えばいいのか。そんなもの滑稽極まりないだろう。逡巡の末、僕はルームメイトと答えることにした。それでも些か不審な点は残るが、そこに触れないでくれることを祈った。 「娘さんの、ルームメイトです」 沈黙。 これはまずかったか。男とルームシェアなんて普通しないのだろうか。次に続ける言葉も見つからずに、僕は彼女の親が次に発する言葉を待った。 『ルームメイト…そう、私にはよくわからないけど、娘がお世話になっているのね』 柔和な声音。最初に電話に出た時も思ったが、節々が彼女に似ている。親なのだから当たり前といえばそうなのだが、今の僕には少しだけ辛かった。 言え。僕が電話をかけた目的はひとつだ。あんなに迷って、あんなに考えた理由がなくなってしまう。自分を奮い立たせて、否応なしに震える声を喉の奥から絞り出した。 「娘さん、が、今朝、亡くなりました」 先程よりも圧倒的に長い沈黙。気が遠くなりそうだ。ルームメイトを名乗る男からの突然の電話、告げられた内容が娘の死。真偽をはかりかねる内容でもあるし、沈黙にもうなずけるが。 そうして、もう切ってしまいたいと本気で思い始めたとき、画面の向こうで小さく嘆息が聞こえた。 『からかっているの?』 静かな怒気を孕んだ声。からかいでこんなことなど言うものか。僕だってできることならこんな報せ伝えたくはなかった。 小さくかぶりを振った。伝わらないのはわかっていたが、それでも振らずにいられなかったのだ。 「からかってません、嘘じゃないです。今朝、通勤途中に電車に飛び込んで」 ごめんなさい、と無意識に呟いていた。その懺悔が非情な宣告をしなければならないことに対してなのか、彼女を助けることができなかったことに対してなのか、自分でも定かではない。 それ以上に伝える言葉も見つからなくて、僕は彼女の遺体が安置されている病院名、僕たちが暮らしていたアパートの住所、そして僕自身の名前。それだけ告げて、電話を切った。幸い彼女の両親はそこまで遠くに住んでいるわけでもなく、これから向かうと言った。もっとも彼女の母親は途中からボロボロに泣いてしまって会話にならなかったので、僕はたまたま近くにいた彼女の父親に電話を代わってもらって話をしたのだが。 これで僕の仕事は終わった。さすがに会社に出向く気にもなれなかったので今日は休ませて欲しいとの連絡を入れて、そのままベッドに倒れ込んだ。 「ほんとに、死んだのか」 誰に届くでもないその声は虚空に消えていった。 悲しいという感情はあまりなかった。涙も出なかった。薄情な人間だと思うだろうか。でも僕たちの関係など所詮そんなものだったのだ。友達以上恋人未満のような曖昧な関係を続けてきた。 またいつの間にか眠っていたようで、次に目を覚ますと、西日がちょうど僕の顔を射していた。かなり長い時間寝落ちていたようだ。少し覚醒しかけた頭を一回だけ左右に振った。と、そこでインターホンが鳴っていることに気付いた。 何も考えずにドアを開け放つ。そこにいたのは初老の男女。普通に考えれば、この二人が彼女の両親なのだろう。母親の方は憔悴しきった様子で目を真っ赤に腫らしている。父親の方は泣いてこそいないものの、沈痛な面持ちで唇を噛み締めていた。僕の顔を見ると深く頭を下げて、 「娘がお世話になりました。」 とこれまた苦しそうな声音で呟いた。 いえ、と言う代わりに僕も深く頭を下げた。言葉が出てこなかった。唐突に大切なものを失った者に対してかける言葉など、僕は持ち合わせていなかった。 二人を家に上げて、お茶を出して少し話した。彼らは僕たちのことを恋人同士だと思っていたようだが、触れてはこなかったので、僕もわざわざ言及するようなことはしなかった。僕にとってもその方が好都合だ。 彼女の父親は案外落ち着いていて、今後の話をとんとん拍子に進めていった。 まず、遺品整理をしたいということ。僕も彼女のものを分別できるほど彼女のことを知っているわけではなかったので、その意に喜んで添うという旨を伝えた。彼女の両親が少しでも彼女との思い出を整理できるように、と言えば聞こえはいいが、実際は僕がそこに立ち会う勇気がなかったので、僕は駅の近くのホテルで二泊するという話になった。 そして次に、僕は通夜にも葬式にも参加しないということ。これは僕の意向だ。僕たちは互いの死を悼み合うような綺麗な関係じゃない。彼女の両親はなにか物言いたげな顔をしていたが、僕は気づかないふりをした。 時の流れとは残酷なものだ。誰か一人が死んだところで、変わらないし止まらない。しかし当の僕は彼女の死から3日経ったのにも関わらず、未だに現実を受け入れられないというか、ふわふわした気分だった。もしかすると、彼女の死から一番目を背けているのは僕なのかもしれない。僕だけが、彼女が死んだという報せを受けたあの時から、進めていないのかもしれない。 遺品整理をするための2日間が今日で終わる。今日僕が帰るのは、安いビジネスホテルではなく、僕たちが暮らした古いアパートだ。あまり気は進まなかったが、意を決して鍵を開ける。2日ぶりの家は思った以上に静かで、僕は拍子抜けした。 彼女の両親は既にいなかった。 テーブルの上に、未開封の手紙が一通と、開封された手紙が一通。その横にきれいな字で 「ありがとう。娘のことをたくさん思い出して、たくさん懐かしむことができました。」 という書き出しのメモ。置いてある手紙の一通はいわゆる遺書のようなもので、もう一通は僕宛てのものだったらしい。そして、通夜と葬式の日時。行かない僕には関係の無いことだが、彼らは僕のことを慮ってわざわざメモを残してくれたのだろう。 関係が悪かったとはいえ、やはり親子だ。思うことは多くあっただろうし、受け入れられないこともまたあったと思う。 僕宛ての未開封の手紙を読むべきか、しばらく迷った。勿論彼女が読んでほしいと思って僕に宛てた手紙だということはわかっていた。しかし読むことが無性に怖くて、僕はその手紙を遠ざけた。 その代わりにもう一通の方に手を伸ばして恐る恐る読む。端正な字だ。仕事に疲れてしまった、職場での人間関係に悩んでいた、などいくつかの理由が書かれている。間違ってはいないだろう。僕でも彼女の働いている量は異常だったと思う。そのあと簡単に僕と彼女の両親への感謝が述べてあった。 彼女の通夜は明日とのことだった。つまり明後日には彼女の身体は骨になってしまう。何度も抱いた彼女の身体が形を失くす。そうなってやっと僕は、彼女の死を受け入れられるのだろうか。 暑い日だった。外では蝉が鳴いている。奇しくも今日は日曜日で仕事もなく、僕は家にこもっていた。火葬は10時からだと聞いたから、あと一時間ほどか。このままだとずっと時計を見続けてしまいそうだったので、出会った時から今までの事を少しだけ懐古した。 まるい声。優しい笑顔。まっすぐな瞳。僕の名前を呼ぶときの、甘い響き。 ひとつひとつ、なぞるように思い出していく。彼女との思い出の欠片をかき集めていると、じわりと視界にモヤがかかった。数秒を要してようやくそれが涙なのだと気付いた。 絶対に泣かないと思っていた。それが僕たちなのだと。僕はずっとそう思っていた。高を括っていた。そうして僕は震える手で、昨日見ることのできなかった未開封の手紙を手に取った。 やはり躊躇いはあった。けれど今これを読まなかったら僕はきっと一生後悔することになるだろう。なぜかはわからないが、そんな確信があった。 手紙を開いて目に飛び込んできた文字。たった一行の手紙。 「私はあなたと、キスがしたかった」 その言葉の言わんとするところはすぐにわかった。暗黙の了解で僕たちはキスをしなかったと言った。お互いが好きではないのだからキスはしない、と。しかし違ったのだ。彼女はずっと僕に恋情を抱いていた。でも僕がその気がないことを知っていたから、彼女は自分の感情を殺して僕に抱かれていたのだ。 涙腺は決壊した。今まで抑えていたものがすべて壊れて、ボロボロと涙が溢れた。手紙を握りしめて、涙が紙に何滴も何滴も落ちて、それでも止まらない。 申し訳なさか、はたまた悔しさか。自分でもよくわからない涙が次から次に溢れて、僕は声を殺して泣いた。 「ごめん、ごめんな。ずっとずっと傷付けた。好きだったよ、僕も」 無意識に口から零れた言葉。思わず手で口を塞ぐが、一度溢れた思いはそう簡単に留まることを知らない。 好きだったんだ。 僕はずっと。 彼女のことが。 思えばいつだって僕は、何かある度に好きではないからと言って逃げてきた。それがどんなに無責任で、彼女を傷付けていたのか、考えようともしなかった。 失ってから本当に大切なものに気付くなんて何も面白くない。生きている内にちゃんと伝えたかった。 咳を切ったように言葉が止まらなくて、嗚咽が漏れる。 彼女に会いたい。会ってちゃんと好きと伝えたい。そしてキスがしたい。 そして最後に、「ありがとう」を。 時計に視線を移すと、火葬の予定時刻まであと30分。ここから斎場までどうやっても20分はかかってしまうので、今から走っても間に合うかはわからなかった。けど、僕の心が、全身が、走れと告げていた。 鍵を閉めるのもそこそこに駆け出す。社会人になって運動する機会は格段に減ったが、それでも小学校から大学のサークルまでサッカーをやっていたのだ。辛うじて残っている運動神経を振り絞って、斎場までの道を駆け抜けた。 肩で息をしながら、ようやく斎場に辿り着いた。腕時計の針が指す時刻は、11時25分。あと5分だ。とりあえず火葬場がありそうな方へまた走る。もう肺は悲鳴をあげていた。それでも僕には走り続けなければならない理由があった。 少し走って曲がり角を曲がったときに、立て掛けられた彼女の名前の看板を見つけた。 「あおいっ!」 ルームシェアをしてからは愚か、出会ったときからあまり呼ぶことのなかった彼女の名前。久しぶりに発した「あおい」という単語は、ひどく掠れていた。 彼女の親族が驚いた顔でこちらを振り返った。僕は息も絶え絶えではあるが、 「あおいさん、に、会わせてもらえませんか、」 と、どうにか言葉を絞り出した。あおい、という単語の響きが僕の胸を締め付ける。 泣くな。今泣いちゃ駄目だ。 ぐっと下唇を噛み締めて俯く僕の眼前に人が立った気配があった。その人影は手を伸ばして、僕の頭を撫でた。 「来てくれてありがとうね、葵くん。」 あおいと葵。彼女があおいで僕が葵。自分を呼んでいるようでむず痒くて、あまり呼ばなかった互いの名。 柔らかい声で名前を呼ばれた。それが無性に彼女の声と重なって、僕の目からまた涙が溢れた。 彼女の母親が膝をついた僕の肩を支えて、棺の前まで連れていってくれた。病院では会わせてもらえなかった彼女を前に、開けていいものかと躊躇う。 「大丈夫」 僕の躊躇いを見透かしたように、彼女の母親が囁いた。 「綺麗にしてもらったのよ」 その言葉を聞いて僕は、棺の小窓に手をかけて、恐る恐る開けた。母親の言葉通り、僕が恐れていたよりもずっと、彼女は綺麗なままだった。久しぶりにこんなに穏やかな顔を見たのではないかというくらい、穏やかな顔をしている。僕の涙腺は緩みっぱなしで、彼女の顔を見た途端にまた涙が止まらなくなった。 もう閉じてしまって、永遠に開くことのない瞼を見つめる。 君は幸せだったかな。心の中で問いかけてみたけれど、無論答えは返ってこない。 「出棺のお時刻です。」 非情な宣告。僕はまだ言いたいことも、話したいことも沢山あった。それでも規則に抗うことはできない。 僕は最後に透明なアクリル板越しに眠る彼女に額を寄せて、 「ありがとう。大好きだったよ。次に会ったらちゃんと、ちゃんと面と向かって伝えるから。」 あおい、と誰にも聞こえない声で小さく呟いた。久しぶりにちゃんと名前を呼べた。初めて好きと伝えられた。 そのまま僕は棺から手を離して、いよいよかたちを失くそうとしている彼女を見送った。もう涙は見せまいと、切れそうなほど唇を噛み締めて、見送った。 青い空が広がっていた。青くて、眩しくて、涙が零れそうだ。 あのまま僕は、彼女が飛び込んだ現場の高架下に、彼女の大好きだった向日葵を手向けに行った。 葵という文字が入ってるから好きなんだ、といつか彼女は笑いながら言った。彼女のおかげで、女っぽくて嫌いだった自分の名前が好きになれた。 全部全部、彼女がつくってくれた。 さよならはもう終わった。彼女のために涙を流すのももう終わった。これからは僕が、僕の中で生き続ける彼女のために笑って生きようと思う。 次に会えたら名前を呼ぼう。君が笑ってしまうくらい何度でも。 キスをしよう。空白の時間を埋められるように。 好きだと伝えよう。ちゃんと伝えて、君を泣かせてやろう。 そうしてまた何度も、何度でも僕の名前を呼んでもらおう。君のおかげで好きになれた「葵」というこの名を。 あまくてまるい、君の声で。 おしまい
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