応者

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秒針のない時計が音を立てた。 重く鳴り響くキリの良い時刻を知らせる鐘。 金属が重なり合う音に目を覚ます。 己の体温で暖かくなった布団は、相変わらず孤独の虚しさが残る。 掛け布団を捲り上げその置き時計まで向かった。 自分と同じくらい大きい背高のっぽなそれ。 短い針が3、長い針が12を指している。 普通ならお茶の時間とも呼べるだろうが今は真夜中の3時だ。 喉が渇いているわけでもないし腹も減っているわけではない。 不意にむず痒くなった背中を掻いて、そういえば昨日が水曜日であったことを思い出す。 ぼんやりとした空間に薄明るい光が灯った。 カーテンが捲れて欠けた月がひょっこりと顔を出している。 暗い部屋に映える自分の手があまりにも白すぎて驚いた。 死人の手かと見違えたが、遠くにある夜の太陽に透かせばちゃんとした肌色を纏っているのが見えて。 心臓のどこかで安堵した。 寝坊助な体を動かす。 思い布団から立ち上がって、部屋の隅にある時計の前から台所へ向かって。 暗い足元を覚束せながら。 腹を減らしてもいない自分が今から何をするのか。 これから誰も知らない夜が始まろうとしている。 職場の人間にも友人にも親にも知られていない、愛を育む行為。 腕まくりをして夜に残しておいた鍋の中身を温め直す。 くつくつとなるくらいがちょうど良い頃合いだ。 人間側としてはもっと熱々に温めて食べたいのだが、これを食べるのは人間様ではない。そんな配慮も必要なのである。 彼の面目に触れるのならば。 鍋をIHから離し木の皿に移す。 彼はこのような小洒落たものが好みのようで。 自分と気が合う人だった。 話せはしないけど。 今日は木のスプーンも買った。 毎回毎回、皿だと飲みにくそうだから。 これで飲ませてあげられれば、と思ったのだが、案外恥ずかしいことをしようとしているのかもしれない。 頭を掻いた。 ベランダに出る。 8階建ての最上階。 古いマンションの一室。 隅っこの部屋だ。 熱いクリームシチューを持って、スプーンも忘れずに用意して。 前の住人さんが残していった大きめのテーブルの上に置いた。 今日は遅い。 狩りでもしているのだろうか。 水曜日の夜中。 家に、客が来る。 それは人間ではない。 自分を癒してくれる大切な存在だ。 彼も、俺を気に入ってくれているようだ。 本当はこんな風に餌付けのような関係じゃなくて、もっと色々なことを話してみたいのだけれど。 彼は口もきけない。 どんな性格なのかな。 どんな心を持っているのだろうか。 僕は喋るその日を勝手に待ちながら楽しみに期待している。 「…あ、」 黒煙の闇の中。 一つの光が見えた。 月明かりとは違う希望をまとったそれ。 横にはためく大きな翼。 闇と同化する漆黒の瞳。 まさしく、美しさの象徴だった。 こっちに一直線に飛んで来る。 思わず手を振って、シチューが冷めてないか確認した。 まだじんわりと暖かい。 かつん、と後ろの方で金属の鳴る音がした。 振り返ればそこには、彼が。 「来たんだね。応者。」 応者と呼んだ彼は、鳥である。 立派な鷲だ。 ただし、かなり年老いている。 それなのに若さを誇る外見は、見る者を惹き付ける何かがあるだろう。 彼は悠々とした態度でベランダの柵に留まっていた。 こちらを見つめる黒に何もかも吸い込まれてしまいそうだ。 僕はその愛おしさに口元を歪ませながら、シチューを運んだ。 「こんばんは。」 軽めの挨拶をしながらスプーンでシチューを掬う。 もうなんの戸惑いもなく鼻の穴を動かす彼にまた愛おしさが募る。 しばらく捧げていると彼が嘴を動かし、器用にそれを飲もうとした。 ちょこちょこ飲み続けるその姿もまた健気だ。 彼はここら一帯の王でもある鳥なのだ。 昼時に優雅に飛ぶ姿を見た。 美しい。 その一言に過ぎる。 周りより大きく美しく強い彼は、いつだって孤独で。 まるで僕のような奴だった。 だからこそ惹かれたのだろうか。 そうであろうと願いたい。 あぁ。 いつか、その美しく整った毛並みをひと撫でできたなら。 その鋭い嘴に指で触れられたなら。 その大きな翼を好き勝手にできたなら。 どんなに良い気分であろうか。 未だに接触は許された試しがない。 当たり前だ。 僕は王の前にいるのだ。 そんなことが許されるわけない。 身のほどを知れ、と睨まれている気がして乾いた笑いを零す。 外の雑踏も静まり返った。 しばらく、見つめ合う。 その黒い瞳の中に心底幸福そうな僕が映る。 緩やかな夜風が彼の毛並みを揺らす。 彼は低くひと鳴きした後、その翼をはためかせ夜の中に羽ばたいた。 消えていった。 また、また来週ね。 そんな約束すらも、もう。 僕は恐れ多い。 応者。 あなたが来るのを心から待っている。 また夜中の3時に会いましょう。 僕の心を癒やしておくれ。 見送ったたくましい背中は、じきに夜の闇へ溶け込んでいった。 彼は、亡くなった祖父にどこか似ている。
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