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佐伯怜は凡人だ。
運動も、学力も。全てが平均的で目立つような才能はない。
けれど彼は幸せだった。
高校生になって、ようやく人生初の恋人が出来たのだ。
彼女の名前は茜坂咲希。結婚したら『さえきさき』だね、などと笑い合ったものだ。
ついこの間、初めてデートをして。初めてのキスも経験した。
まさに幸せの絶頂期。未来を思い描けば、一点の曇りもなく美しい。
彼女の事を考えただけで、自然と笑みが溢れた。
「なに鼻の下伸ばしてんの?」
声の主を見上げれば、幼馴染の桐原舞花が怪訝そうに怜の表情を伺っていた。まるで害虫でも見るかのような目である。
「なんだよ。うっせーな……」
「は? 煩いって何よ。全く、こんな唐変木に彼女が出来たとか信じられないわ。しかも、茜坂咲希って言ったら学校一の美人じゃない。いったいどんな姑息な手段を使ったの? 学校中の男子に恨まれて死んでしまえ」
「……これが煩くなかったら何なんだ」
はぁー……と深い溜息を吐き、帰り支度を済ませる。今日は咲希と一緒に帰る約束をしたんだ。こんな女に構っている暇はない。
「ま、待ってよ!」
「……何?」
舞花は俯き、ぎゅっと握り拳を作る。待てと言うその声は、とても震えているような気がした。
「私、怜にずっと言いたかった事があるの……」
今まで見たことのない幼馴染の姿に、言葉が出なかった。彼女にもこんなしおらしい一面があったなんて、知らなかった。
けれど、彼女の言いたかった事など想像が付かない。嫌味ならいつものようにズバズバ言えば良いし、そもそも今更改まって言うほどの事があるのだろうか。
暫く待っても、彼女は何も話さなかった。唇を強く噛み締めているだけだ。痺れを切らした怜は学生鞄を持ち上げた。
「早くして欲しいんだけど」
ボソリと、そう呟いた瞬間。何かが怜の唇を塞いだ。ついこの間、覚えたばかりの感触。柔らかな、女の子の唇の感触。
意味がわからない。何故自分は今、彼女とキスをしている?
怜は慌てて彼女の肩を押しやり、顔を離れさせた。
「何やってんだよ……っ」
悲しげな舞花の瞳。その向こう側に見えた、咲希の暗い瞳。……そう、そこには咲希がいた。教室の入り口で、ずっと怜のことを待っていた。
「あっ、これは違うんだ。違うんだよ……」
咲希は2人を一瞥し、駆け出した。まるでこの場から逃げるかのように。
「待ってくれ!」
慌てて咲希の後ろ姿を追いかけようとする。だが、それを拒む者がいた。
「行かないで!」
怜の腕を掴んだ手は、とても弱々しく震えていた。……だが、咲希しか見えてない彼には何も届かない。
「離せよッ」
虚しく振り解かれた手。行き場の失った腕。
教室を飛び出す怜の後ろ姿。
……結局、何も変えられなかった。
「うわあああああッ!」
幼馴染の幸福を願った少女は、ただただ絶叫した。
それは、祈りの叫びだった。
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