兵藤由紀(ユキ)

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兵藤由紀(ユキ)

 幼い頃から私は、祖父が大好きだった。  厳格で、自分に厳しく、正義を愛する人。  鬼双柳という名の槍術専門の古武術の道場を昔から営んでいて、私にも教えてくれた。  私が生まれる前、祖父はこの武術で酷い戦争時代を生き抜いたらしく、たまにその話をしてくれる。  私はその話が大好きで、何度も話をせがんだ。  まるでおとぎ話に出て来るヒーローが悪者を倒す、そんな風に祖父が輝いて見えた。  ただ、その話をするといつも祖父は決まって寂しそうに笑みを浮かべる。  ソレの意味が分からなかった。  高校に入る前、私は祖父に呼び出された。  何の話だろうと思ったら、将来について聞かれた。  できれば私は道場を継ぎたいと言うと、祖父は申し訳なさそうに「それは出来ない」と告げた。理由は酷く単純で、鬼双流は代々男子が受け継いだ由緒ある武術だからそれを今代で覆すわけにはいかないとの事。  正直言えば、古い習慣に囚われるのは良くないと思ったけど、古きがあるからこそ今があるという事も理解してる。  祖父は「女の子としての幸せを持って欲しい」と言われた時は、年甲斐もなく大泣きした。  ……まあ、年甲斐もなくと言ってもまだ15やそこらの小娘なのだから、泣くこと自体は変な事は無いのだろうけどね。  とにかく私は武術を習ってはいたけど、継ぐ事は無かった。  その代わり、成人していた姉さんが結婚し、その相手が継ぐことになった。その相手は道場の門下生で、姉とは仲の良い男性だった。  腕前は3番目。1番は当然祖父、2番目に私、そして3番目はその人。  正直言えば「私より弱いのに」という思いもあった。自分の夢を横取られたような気持ちになって、すごく冷たい態度を取ってしまった。  自分にもこんな子供っぽい感情がある事に驚いた。  私、本当にその道場を継ぎたかったんだなと、その時分かった。  それから暫く道場を休むようになって、祖父とも口を利く回数が減った。  子供っぽいけど、怒ってるわけじゃない。  ただ心の整理が付かなかったのだ。当然その事は祖父に伝えている。 「ゆっくり考えると良い。由紀にはそれが必要だ」  祖父はそう言って、以前の様に寂し気な笑みを浮かべた。  道場を休むようになると、今度は暇が出来るようになった。  その暇を持て余す様に私は勉学に励んだ。元々成績は悪い方ではなかったのだが、それによってさらに成績は上がり、気づけば学年トップ間近まで上り詰めていた。  両親はその事を褒めてくれたし、祖父もほほ笑んでくれた。  ただ、私は満たされず。無感動にそれを受け止めていた。  武術を学んでいた時ほどの感動が無い。  生きがいと言える目標を失った日から、心から喜ぶという事が無くなったのだ。  高校生になって、一人の生徒に出会った。  日傘凛太朗。  クラスが決まった当時、彼を見た時の第一印象は「普通」だった。  可もなく不可もなく、突出する物もなく、人と積極的に関わるわけでもなく、ただそこに空気の様に居た。  その時に既に「会っていた」のだが、私はその事をすっかり忘れ、暫くの間彼を本当に空気の様に扱っていた。  ……今更思うと中々酷い。  ただ高校生活も慣れ始めた頃、事件が起きた。  姉夫婦が離婚した。  理由は夫の浮気。  よくある話だと、私は達観した気持ちで見ていた。  ただその夫の捨て台詞が許せなかった。 「元々そいつも武術も好きじゃなかった。道場主の娘だから、金があると思った。こんなに貧乏だとは思わなかった。外れくじを引いた」  その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かがはじけ、次の瞬間には姉の元夫を叩きのめしていた。  道場へ通うことは止めていても、自主訓練は続けていた。  そしてその男は結婚してから一度も槍を握っていなかった。  こんな男に、私の夢は奪われたのか。  そんな思いでいっぱいになり、ボロボロの男を前に私は涙より怒りを吐き出した。  恐らく、あのままだったらその男を殺していたかもしれない。  だけどそうならなかった。 「由紀ぃ!!!」  祖父が鬼気迫る表情で、私を打ち据えたのだ。  どんなに厳しい訓練でも、あれほどの形相で打ち込んできた事は無かった。  間違いなく「本気」の攻撃だった。  大きく体を拭き飛ばされ、地面を転がる私を見下ろす祖父。 「由紀、お前はその槍を怒りに任せて振るうのか」  その鋭い視線を受けた瞬間、体が震え恐怖した。  そして、私は逃げる様にして家を出て行った。  背後から家族の声が聞こえたが、振り返れない。  気が付けば、私は公園に居た。  子供のころから武術と勉強漬けだった私にとっては馴染みの無い場所。  夕暮れの中、ベンチに腰を掛け項垂れていると頭の中にぐるぐるといろんな考えが渦巻いた。  私は悪くない。なんで怒られるの。あの男が悪い。やり過ぎた。大好きな鬼双流を汚した。もう槍は握れない。もう少しで殺すところだった。祖父が怖い。怒られる。どうしよう。  そんな思いでいっぱいだった。  日が落ち、街頭が付き始めた頃、人の気配を感じた。  何気なく顔を上げるとそこに、買い物袋持ったクラスメイトの日傘君が立っていた。 「あれ、ひょ……兵藤さん?」  若干どもりながらこちらを見る彼は、すぐにギョッとした顔をして駆け寄って来る。 「何があったの!? 大丈夫!?」  意味が分からず、彼を見ているとハンカチを取り出しそれを差し出した。  それを見て初めて自分が涙を流している事に気が付いた。  ああ、私も泣けるんだ。  そう思うと、鼻の奥がツンとなり、視界が大きく歪んだ。  目の前にクラスメイトが居るのに私は、声を上げて泣いた。  その間も彼はずっとそばに居た。  一人分のスペースを空けて、ベンチに腰を掛ける彼は買い物袋を置いてひたすら黙っていた。  泣き止んだ後、彼は言葉を選ぶように話した。 「あ~……、その、なんていうかさ。俺でよければ聞くよ? 聞くしかできないけど……」  私は思わず彼を見つめてしまった。  すると視線に気づいた彼は此方を見て、にへらっと気の弱そうな笑みを浮かべ続けた。 「ほら、貯め込んでると良くないっていうし。兵藤さんもきっとそう言うのあるんじゃないかなって」  その言葉に、私は黙っていると「はは……やっぱ、頼りないかな」と自嘲気味に呟いた。 「……私、人を殴ったの」 「え?」 「姉さんの結婚相手が浮気してて、理由はそれだけじゃないんだけど……カッとなって」 「うん」  彼は何を言うでもなく、黙って聞く。  その態度に気付けば私は、心の奥底にため込んでいた思いを吐き出していた。 「その人、ウチの道場の跡継ぎだったんだけど……その人が姉さんと結婚したのは道場のお金目当てで、別れ際に「外れくじだった」って……」 「兵藤さんちって道場やってたんだ」  少し的外れな感想を受ける。  それでも聞いてくれることが嬉しかったから、素直に頷いた。 「うん」 「もしかして兵藤さんも?」 「……うん」  きっと、道場をやってる人間が怒りに任せて暴力を振るった事を責めてるのだと思い、俯いた。  だけど彼から帰ってきた言葉は、先ほど以上にズレた内容だった。  いや、見当違いと言った方がいいかもしれない。そんな答えだった。 「すごいね」 「え?」  何を言ってるのか分からず顔を上げると、そこにはこちらを見てほほ笑む日傘君の姿があった。 「兵藤さん、その跡継ぎに選ばれた人を倒したんでしょ? ってことは、兵藤さんの方が強いんだ」 「え、あ……うん。その、元々、その人がウチの3番目だったから」 「もしかして2番目だった?」 「うん……」 「すごいじゃん。じゃあ今まで学んだことが役立ったね!」 「そう、かな」 「だって家族を泣かせるような人を倒したんだよ? すごくない?」  言われて衝撃だった。  私は、姉が泣いていたかすら覚えていないのだ。  あの時、姉の心の心配ではなくひたすら自身の為だけに槍を振るっていたのだと分かった。  すると、祖父が告げた言葉が脳裏によぎった。 『由紀、お前はその槍を怒りに任せて振るうのか』  その言葉の意味を理解した。  祖父は、殴った事を怒ったんじゃない。私が、ひたすら怒りに任せ自分の為に槍を振るった事を怒ったのだ。  だから烈火の如く打ち据えたのだ。  きっと、あの時の私は怒った祖父以上に恐ろしく、醜い顔をしていたのだろう。  だから止めた。 「ごめん、日傘君。私帰らないと」 「え?」  急に立ち上がった私を見て、また彼はにへらっと笑う。 「そっか、じゃあ気を付けてね」 「ええ、ありがとうね。今度お礼するわ」 「別にいいよ。買い物帰りに寄り道しただけ…………あーーー!!」  急に叫んだ彼にびっくりする。 「アイスが溶けてるぅぅぅ!!」  愕然と言った顔で買い物袋を見ると、そこから滲んでいる液体が袋に満たされていた。 「ご、ごめんね」 「……いや、いいよ。完全に忘れてた俺も悪いし……。ちょっともう一回買って来るよ。兵藤さんも暗いから気を付けてね。あ、でも平気かな? 兵藤さん強いし! じゃあね!」    そう言い切ると彼は、止める間もなく走って行ってしまった。  その背中を見て、なぜか祖父と彼の背中が重なって見えた。 「そうだ……帰って謝らないと」  姉さんと心配をかけた両親に。  そして、間違った事をした私を止める為とはいえ、武器を振るわせてしまった祖父に。  帰るとそこには、私が最後に見た以上にボロボロにされた男の姿があった。  ボロ頭巾と言うにふさわしい姿と、背中を向けたままの祖父。  その近くには槍を握らなくなって久しい姉の姿。両親もまた仁王立ちしていた。 「あ、あの……」  声をかけると皆がこちらを見る。 「由紀!」  姉が駆け寄ってきて、私を抱きしめた。 「もう、心配かけないでよ! こんな男に振られたくらいで私はへこたれないんだから!」 「ごめんなさい……姉さん。私……――」  言いかける言葉を遮るように、更にきつく抱擁した。 「分かってる。悔しかったものね。あんな馬鹿に夢を取られたんだから」 「……ッ」  どうやら姉さんは私の事はお見通しだったようだ。  だから、あの時私怨であった事も気づいていた。  だけどその上で、こうして抱きしめてくれている。  言いようのない感情が胸にこみ上げて、涙が溢れる。  ただ、今泣いてしまってやるべきことをしない訳にはいかない。  私は姉の腕の中から出て、祖父に向かう。 「もどり、ました」 「……」  答えてくれない。  祖父は振り返ることなく、道場の額に飾られた「一槍一心(いっそういっしん)」という文字を見つめている。  鬼双流に代々伝わる言葉で「一本の槍に、心を乗せる」という意味らしい。  奥義ともいえるその言葉を見つめる祖父の背中は、酷く悲しそうに見えた。  私は祖父の後ろに正座すると、そのまま両手をつき頭を下げた。  土下座ではなく、これは武を学ぶものが相手へ敬意を払う姿勢。  これが一番ふさわしいと感じた。 「ありがとうございます」  祖父から返答はないが、続けて口を開く。 「私はもう少しで大好きな鬼双流を、本当の意味で汚すところでした。止めてくださり、ありがとうございました」  わずか数秒の沈黙。 「分かったか」 「はい」  再び沈黙が訪れる。   「……由紀、儂はな。戦争で鬼双流を使った事を心より恥じておるのだ」  唐突に語られる祖父の後悔。  心底驚いた。  アレほど自らの技を誇っている祖父のどこに恥じる事などあるのだろうか。  祖父が戦ったからこそ、生きて帰った友人がいた事を私は知っている。  今でもたまに、当時の戦友が訪れ酒を酌み交わしているのを私は知っている。  なのに、祖父はそれを恥じていると言った。 「何故ですか? 戦争では、友人を救ったと」 「確かに救いはした。ただ、アレは結果論じゃ。あの時、儂は殺された別の友の死体を見て、怒りに任せて敵兵を殺したのよ。銃剣が折れたら竹槍を用いて、竹槍が折れたら枝先にナイフを括りつけ、振るった。  そこに誇りも想いも無い。ただの復讐心に囚われた悪鬼しかおらん。殺す為だけに戦い続け、降伏を願う敵兵の首を刎ね、心臓を穿ち、屍を積み上げたその上で、一人狂ったように槍を振るった……。あのような技を振るった事は儂の人生最大の汚点よ」  壮絶、というにはあまりにも言葉が足りない。  祖父の苦悩を感じる、懺悔にも近い言葉を聞いて私は、なんと声をかけるべきか分からなかった。  すると祖父は続けた。 「何故、儂が由紀に戦争の話を聞かせたかわかるか?」 「……いえ、ずっと物語の一つとして聞いていました。まるで英雄のようだと思っていました」 「そうであろうな。……儂はな、由紀。お前に同じ道を歩んで欲しくないのだ。鬼双流を愛し、心優しいお前が憎しみに囚われ、本物の鬼に成る様など見たくないのだ」  そう言って振り返った祖父の瞳からは、大粒の涙が溢れていた。  言葉を失うとはこういう事なのだと、若干的外れな考えが脳裏によぎる。  そう思ってしまうほど声が出ない。  口がまるで魚の様にパクパク動くのに、何を発したらいいのか分からない。  祖父は私に歩み寄ると、目線を合わせるようにひざを折ってしゃがみ、抱きしめた。 「すまなかった、お前をそこまで追いつめたのは儂だ。男だ女だとこだわる前に、一人の戦士としてお前を見てやるべきだった。夢を奪われた者の辛さは儂が一番知っておるのに……、それを察してやれんかった。許してくれ」  私は言葉より先に体が動いた。  祖父の身体を抱き締め返し、泣き疲れていた筈なのに、溢れる涙を流し 「おじいちゃん……ごめんなさい、ごめんなさいっ」  と繰り返した。   私を抱きしめ返す祖父の腕は酷く震えていて、アレほど鋭い一撃を放った人とは思えないほど弱々しかった。 「それにしてもよく自分で気づけたな」  数日後、祖父が聞いてきた。 「自分ではないわ……。友達にあったの」 「大久保という幼馴染の子か?」  幼い頃から付き合いのあるエリを思い出したようだが、今回は彼女は関係ない。  彼女は今大変な時期だから。 「ううん、クラスメイトの子なんだけどね……ちょっとお爺ちゃんに似てた」 「…………男子(おのこ)か」 「うん、弱そうなんだけどね、何となく似てるなって思ったわ……って、どうしたの?」 「いや、由紀も恋を知る季節かと思うとな」  急に遠い目をする祖父が笑っていると、姉が 「何々? 恋バナ? 混ぜてよ」  と言いながらやって来た。 「もう、何を言ってるのよ姉さん」  逞しいのは相変らずのようだ。  後々になって聞いたのだが、あの男をボロ雑巾にしたのは姉だった。  私が逃げ出した後「なんて暴力的なガキだ、訴えてやる。はは、学生で暴力事件か、アイツの人生終わったな」と言った瞬間、姉が激怒。  引退し、既に置いた槍を再び手に取り、男をそれこそ羅刹の如き表情で叩きのめしたそうだ。  その事を祖父は「まあ、なんだ……当人同士の問題であるからな」と目を逸らしたのが面白くて、笑ってしまった。  なんでも、亡き祖母がひと時の過ちを犯した祖父に怒り狂った様によく似ていたらしく、震え上がったらしい。  お父さんに「浮気はいかんぞ、浮気は」としみじみ言っているのが印象的だった。  その後、姉と男は正式に離婚し、若干やり過ぎてしまったため治療費を払う羽目になったが、姉は「スッキリしたし別にいいわよ。サンドバック代とでも考えるわ」と笑い飛ばしていた。  その事件以降、私は彼をどこか目で追うようになっていた。
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