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楽しげな口ぶりでつぶやく七波に無難な相槌を打ちながらも、藤枝はおのれがその内容をまったく覚えていないことに気付いて愕然とする。まだ先の見えなかった去年の今ごろ、受験勉強の息抜きにと聴いていたこの深夜の一時間がどれだけ精神的に自分を支えてくれたことか。それなのに、藤枝にとって今、彼女の声はいつしか意味を解せない外国語のように無味乾燥したものになりつつあった。
代わりに、藤枝の意識を捉えて離さなくなったのは、自分のすぐ隣でラジオに耳を傾ける七波の存在だった。リスナーのリクエストに応じて流される曲にあ、これ好きなんだよね、と嬉しそうに独り言ちる声。リズムに合わせて目の前で楽しげに揺れるやわらかそうな髪。番組に寄せられたさまざまな意見にくるくると目まぐるしく変化する表情。藤枝はどう思う? と無邪気に向けられる眼差し。それらのひとつひとつに目を奪われているうちに、かつてあんなに大好きだったDJのトークまでがあっという間に虚しく鼓膜を上滑りしていく。
「……藤枝? なに、どうしたの、ぼうっとして。──あ、分かった。ひょっとしなくても眠いんだろ」
果たして、今夜も気もそぞろなことを見抜かれたのだろう。そう言って、すぐ至近距離から顔を覗き込んでくる七波の視線から逃れるようにそんなんじゃないよ、と返して目をふせる。実際、今、この瞬間も、うるさいくらいにおのれのなかで鳴り響く心臓の音がすぐそばにいる彼にも聞こえてしまわないかとひやひやしているのに、眠気なんて感じるはずもなかった。
「……ねえ、ひとつだけ訊いてもいい?」
だから、ふと次の曲とのすき間を縫うようにして続けて七波が真顔で口にした問いに、藤枝は心ここにあらずの体でうん、と生返事をする。そして、そのことをすぐに後悔するはめになった。
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