雨が降ったらキスをしよう

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「───雨、」 思わず口の端から漏れたその言葉は、誰に聞かれるでもなく消えていった。3時頃から急激に重く暗くなり始めた雲は、遂にその重みに耐えきれずにひとつ、ふたつと雫を落とし始めた。  昇降口でローファーをつっかけて小走りで外に出た私は、泣き出した空を見上げて足を止めた。 関東でも梅雨入りをしたって天気予報で言ってたっけ。そんなことを考えながら憂鬱な気持ちでリュックの中にあるはずの傘を探る。  あれ、ない。  入ってると思った折り畳み傘が入っていないのだ。何度か同じところを探すが、よもや見つかるはずもない。そこでふと思い出す。  ああ、朝妹に取られたような気がする。私の傘壊れたの、とお茶目に笑った妹の顔が脳裏に浮かんだ。あの子絶対許さない。  私は頭を抱えた。雨足は先程と比べて格段に強くなってきている。とてもではないが走って帰れるほどではなかった。諦めて濡れて帰ろうかと逡巡したものの、リュックの中にある友達に借りた本の存在を思い出し、断念。  仕方ない。雨が弱くなるのを待とう。  小さく嘆息して、私は昇降口を出たところにあるコンクリートに腰を掛けた。スマホを取り出して、恨みを込めたメッセージと帰りが遅れる旨のメッセージをそれぞれ1件ずつ、妹と母に送った。  天気が悪いせいか、まだ6時を少し過ぎたところだというのに、6月とは思えないほど外は暗く、振り向いて校舎に目を凝らしてみても、人が残っている気配もない。いつもはうるさい運動部の掛け声や怒号も、今は影を潜めてしまったようだ。私の高校は職員室が別棟にあるという少し特殊な構造をしているため、よほどのことがない限りここに人は来ないだろう。  ひとりぼっちの気分だった。  耳に届くのは雨の音と自分の呼吸音だけで、近くを走る騒々しいトラックの音も、今は遠い世界のことのように感じられた。  小さな画面の、無機質な光を何の気なしに眺める。いつもは便利で楽しくて、なくてはならないと信じ切っているこの道具も、今だけは何故か疎ましく感じられた。 「それ、何?」 がしゃん。騒がしい音を立ててスマホがコンクリートの上に落ちた。慌てて拾い上げて画面に傷がないことを確認して、そうしてやっと声の主の存在を思い出した。恐る恐る視線を上げると、立っていたのは同年代くらいの男。 「…それって、どれですか」 自分でも驚くほど間抜けな台詞だ。なんだそれってどれですかって。  その声を聞いた男は快活に笑って、 「それ!手に持ってる黒いやつ、ケータイ?」 と重ねて尋ねてきた。私は曖昧に頷いた。  質問の意味がわからなかった訳ではなく、単純に今どきスマホのことをケータイなんて呼ぶ人いるのか、という疑問。懐疑的な視線を再び男に向けた。  よく見ると随分整った顔をしている。形のいい眉に優しげな目、筋の通った鼻に薄い唇。こんな人見たことないな、と首を傾げた。 「あ、スマホってやつでしょ、俺持ってないんだよねえ、すごいね君」 構わず人懐こく話しかけてくる男。  スマホ持ってないのかよ。私たちの年代で持ってない人というのをあまり見かけたことがなかったから、物珍しいものを見る気分になった。  私は再び曖昧に頷いた後に、意を決して話しかけた。 「あの、誰ですか?」 男はきょとんとした後に何が面白かったのかくつくつと喉の奥で笑い出した。なんだこいつ。 「急に話しかけてごめんね、俺、夏希っていいます、芹沢夏希。」 なつきでいーよ、と付け加える。  芹沢夏希。口の中で反芻してみても、やっぱり聞いたことの無い名前だった。これだけイケメンだったら名前くらいは聞いたことがあるだろうと思っていたのだが、アテが外れた。  有無を言わさぬ調子でちょこんと隣に座ったこの人は、聞けば3年ということだった。ふたつ上なら確かに聞いたことなくてもおかしくないのかもしれない、と無理やり納得する。  部活には入っていなくて、でも中学まではサッカーをやっていた。彼女はいない。いくつかどうでもいい情報まで植え付けられたが、とにかく悪い人ではなさそうだった。 「先輩はなにしてたんですか」 んー、と視線を左に逸らした先輩は、曖昧に笑って私の問いに答えてはくれなかった。  よく考えたらこの人どこから現れたんだろう。話しかけられた時は目の前に立っていたけれど、横を通り過ぎたとしたら気づけるはず。そのことを何となく聞いてみたが、それもまた有耶無耶にされた。  芹沢夏希という男は、どこか影のある人だった。下を向いた時に前髪の隙間から覗く目が寂しげだったり、核心を突いた質問には答えてくれなかったり。でもやっぱり、悪い人ではなさそうだった。  10分ほど座りながら話を続けた。雨は依然降り続いている。ふ、と何かを思い出したように立ち上がった先輩は、私に向き直って一言こう言い放った。 「あ、俺、傘持ってるの忘れてた。一緒に入る?」 …早く言えよ。
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