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「でも、私はプロだからちゃんと寝かしつけてあげる。一回、騙されたと思ってついてきてよ。眠れなかったら料金はいらないし!」
そういうと柚希は、ふらつく男の体を支えながら半ば無理やり連れて帰った。店のドアを開け「店長、お客さん連れて来たので、空き部屋借りますねー」と声を掛けた。そして、そのままカウンターで空き部屋を確認し、B号室にマグネットを貼る。
──あ、しまった。
ドアを開けた瞬間、後悔した。Bは若干メルヘンな部屋で、女の子たち曰く〝ゆめかわ〟のイメージらしい。こんな部屋じゃ、この人も落ち着かないだろうと思うも他は満室だった。仕方がなく部屋の真ん中にあるソファーに男を下ろす。
すると、片眉を寄せながら「だから、俺はこんな所に来ても無駄なんだって。それにこういう性的サービスは……──」と不機嫌なのを隠そうともせずに言う。
「大丈夫ですよ。そういうサービス、うち禁止なんです。ただ膝の上を貸したり、添い寝したり、リラックスして睡眠できる空間を提供するだけですから」
「しかしだな」
男は、かっちりスプレーで固めている髪の毛のように、頭の中もカチカチなのかとおかしくなってくる。よく見るとYシャツはパリッと糊付けされており、靴もピカピカだった。
「ふふふ。大丈夫ですって。取って食いはしないですよ。それに何かされたとしても、あなたの方が私よりガタイがいいから、力で負けちゃうし」
柚希は、面白そうに笑いながらブランケットを持ってきて、男の隣に座る。そして「ここに頭を乗せてください」と、膝をポンポンと叩いた。
「は?」と素っ頓狂な声を出した男は、信じられないものを見るような顔で柚希を見る。
再び膝を叩き「ここに」とアピールする。
「寝床なら、そこのベッドを貸すだけでいいだろ!」
「ここは添い寝カフェだし、それに私の膝まくらはよく眠れるって他のお客さまからも評判なんですよ」と笑う。
「いい大人が──」
「そう思うかもしれないですけど、もしこれで眠れたら佐々木さんが楽になれますよ。ほら、試してみましょう」
「な、なんで俺の名前」
佐々木は、一瞬目を丸くし顔をしかめる。そして、眉間に深い皺を刻み柚希を睨んだ。
「さっき、胸のポケットに入っていた社員証が見えちゃって。黒浜信用金庫、上席調査役の佐々木雅人さん」
いたずらっ子のように笑い、強引に佐々木の頭を自分の膝の上に乗せる。そして、ブランケットを掛けた。
「佐々木さんの名前だけ知ってるってフェアじゃないですね。私は、ユズって言います」
「──ユ……ズ」
のんびりと柚希の源氏名をオウム返しされ、自然と頬が緩む。しかし、これ以上話をしていたら佐々木の睡眠の妨げになる。ここに連れて来たのは、良質な睡眠を提供したかったからだと思い直す。
「あのー、子守唄を歌うので、そのまま目を閉じて下さいね。きっと、ぐっすり眠れますから。じゃあ、おやすみなさい」
「ま、待て……」
柚希は「大丈夫ですから」と柔らかい声で言いながら佐々木の目に左手を置き、明かりを遮る。右手で髪の毛を撫でながら、囁くような優しい声でブラームスの子守唄を歌い出した。
次の小節を歌い出そうと思い佐々木の様子を窺うと、子供のように柚希のスカートをギュッと右手で掴み、寝息を立てていた。その姿にふと笑みが零れる。
「ふふふ。やっぱり、すぐ寝ちゃった。本当に、この人眠れなかったのかな? でもこれで、少しでも疲れが取れるといいのだけれど」
身じろいだ佐々木から甘い香りが漂う。
──ん? 香水かな?
きちんとした身なりをしている人だから、大人の嗜みで香水をつけているのだろう。
体を動かさないようにしながら、柚希の膝の上で寝息を立てる佐々木に優しい笑みを浮かべるのだった。
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