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キスと脅し
「っ、ざ、けんな…ふざけんじゃねえ……っ!!」
廊下に反響するような我を忘れた怒鳴り声に、特待生の足がふと止まった。
「………なに?」
ゆっくり振り返った特待生の表情は一切感情の込められていない無表情だった。
(なんで……っなんで、ちっともわかんねえよ、っ!!)
無表情なのは、もう俺なんかには興味がねえから?お前の中で俺という存在が価値を失ったから?
失望したから、一抹の興味すら失ったから……だから、だから俺に対しての感情なんて微塵も込み上げてこねえの?無表情しか向けてくれねえの?
「……っ、ふざけんな…」
上手くいかなかった。いつからか、気づいたときには、誰一人として例外などなく、自分に背を向け、離れていった後だった。
大切だった。何よりも大切にしていたい場所だった。遅かった。――そんな当たり前のことに気づいたのは、その大切な存在が、場所が、背を向け離れてしまった後だった。
なんで身近で感じられている時に気づけなかったのか、いくら自分を責めたって遅すぎた。悔やんだって、戻りたいと願ったって、
「……おまえに、なにがわかる…、」
当たり前だと疑う余地もないほど当たり前に笑い声で溢れていたあんな日常が今更戻ってくるなんて、ありえないってことくれえわかってる
それでも、無駄なこと承知して、夢見ちまうんだよ。
どうやったって修復なんて不可能だろうそんな日常に、もう一度戻れる可能性があんのなら…なんて。
ぎり、と奥歯を噛み締めた。
「別にふざけてなんかないけど。俺はいつだって大真面目だからね。それと悪いけど、その質問にはあいにく興味が湧かないなぁ」
微動だに変わらない無表情のまま吐き出され言葉が言い切ると同時に、蓋が壊された感情の赴くままに、近くの壁に、力の限り特待生を押さえつけた。
自分より背丈も体格もいいやつに身柄を拘束されれば大概の奴は僅かながらも恐怖を抱いてうろたえるだろうに、まさに今、壁へと拘束しているはずの目の前のこいつはどうだろうか
「ねえ、離してくれない?」
恐怖を抱くわけでもなく、ましてや狼狽えるわけでもない。ただ、つまらなさそうに。これ以上の俺との関わりが心底煩わしいとでもいうような。目線と同一の高さに突いた両肩の手を興味なさげに一瞥し、すぐにまた逸らした。
「っ、聞かせろ。おまえは一体なにを知っていて、どこまで感づいている?」
高等部から編入してきたにも関わらず、入学式の際初めて目にし認識したであろう俺たち生徒会の険悪な雰囲気にも、宇宙外生物の存在にもこいつは気がついていた。
だが疑問を隠せないのも事実。何故そういった生徒会の内部の環境にまで気づいた?いや、気づけた?いくら全国模試主席様の頭が冴えていようが、人より何倍も他人の心情に敏感でいようが。軽く千単位を超えているこの学園の生徒は、こいつ以外誰一人として俺たちの違和感に気づけた奴はいなかった。
それなのにこいつは気づいていた。知っていた。だが目敏く勘が鋭いといった理由だけではたして、深いところまで認知できるのかと問われれば、それは無と等しいのではないか。
「あのさ、アンチ会長、まだわからない?」
淀みない動作で両隣に突いていた手首をギュッと掴まれる。
「求めてないんだよ、そういう、どうでもいいような質問も、あんたの心情も。」
「っ…はな、せ…」
一見華奢なその身体のどこに、これだけの力が隠されていたというのか。
言葉を紡いでる最中でも手首に加わる力は強まる一方で。ぎりぎりと圧迫される手首の痛みに耐えかねて、思わず顔を歪める。
「興味のない質問には回答の需要はないからさ、あんたにとっても重要なこと、代わりに教えてあげるよ」
「はあ…?いきなりなんだよ。まじで会話の成り立たねえ奴だなおまえ…」
完全に逆転した優位が、無性に焦燥感を駆り立てられる。
締め付けられる痛みでうまく思考が働かない、せめてものプライドで悪態を付く。
今度は一瞥でもなく逸らすこともない真っ直な視線と痛みで、頭がどうにかなっちまいそうだった。現に速まる脈と鳴り響く鼓動を宥めようと足掻こうとするも、不可能に終わる。
間が沈黙に姿を変えようとした刹那、不意に特待生が言葉を発した。
「これからますます面白い……いや、会長にとっては絶望的な展開に、この学園は陥るよ。きっとね。」
ひどく、ひどく愉しそうに。スッと目を細め、口元に笑みを描くその瞬間、美人といった印象はがらりと変わって、表すのなら妖艶の二文字。
僅かでも気を抜けば魅力されそうなその表情に、痛みすらいつの間にか忘れていた。
「ぜ、つぼうてき…?」
大切だった人達と居場所を脇から…しかもあんなうざいこの上ねえ宇宙外生物に掻っ攫われちまった現状で、待ち受けてんのはこれ以上の絶望的な展開だと?それも学園を巻き込んでの?
(いみわかんねー…)
一体こいつの、楽しい、面白い、はなんなのか。そもそも興味内のもんだと関心が沸くといっていたが、笑みを深めているこの現状こそが、まさかこいつにとっては愉快に思える興味内の事柄なのか。
いくら思案を巡らせようが一向に読める気配がねえ…
っつか、なんかもう、どうだってよくなってきた
「……はあ。重要性は問われるが、有り難いご忠告どーも。ってかいい加減、手ぇ離してくれねえ?」
忘れてたけどずっと痛いの我慢してたんだよな。そろそろ血液の巡り悪くなってきやがったし。
恐怖も焦燥も怒りも、何もかもが諦めへと変わって、意志とは関係なしに苦笑が零れた。
そんな俺の心情を察したのか、そうではないのか、まあ後者だろうけど。特待生は手を離そうとして、そして何故か、何かを考慮し始めた。
「悪いねナナ。頼まれごと引き受けてよ」
ようやく結論が出たのか、考慮にピリオドを打った特待生は、後ろで手持ち無沙汰そうに壁に寄りかかりながらスマホを弄っていた平凡生徒に声をかけた。
「……むしろこっちが頼むわ。面倒事に俺を巻き込まないでくれ」
「わあ。今の台詞、時代の脇役平凡総受け主人公みたいでよかった。本当にナナって逸材だよなぁ。」
「貸しイチな。んで後で、頼むから一発、蹴り入れさせてくれ」
苦々しい顔付きの平凡生徒に特待生は何かを囁いていた。
…っつか近くね?耳元でとか、どんだけ普段から距離近いんだよこいつら…。
漸く間近だった距離が離れ、どことなく満足気な表情を浮かべる特待生。「いやな奴」やはり苦い顔で眉根を寄せるも、その次には吹っ切れたような平凡生徒の溜め息。
それが、合図となった。
「っ、!な、」
ぐっ、と腕を引き寄せられ、目の前いっぱいに均等にパーツのとれた端麗な顔が広がる。
冷たい色が宿るものの、その瞳はいつだって射抜くように真っ直ぐで。
今、こいつの見ている景色には俺しかいない。こいつのこの瞳を、視界を、他でもない俺が独占しているのかと思えば、滲み出る優越感でゾクゾクと背筋が震えた。
「……ひとつだけ訂正するよ」
「っ、……く、」
耳元で囁かれて、想像以上の近さに驚いた。
言葉を紡ぐ度に耳に掠る吐息がひどく熱い。
「興味が湧いてきた。あんたの心情も……その表情にも」
そう、妖艶に笑ってみせた。熱を含んだ眼差しと長い睫を臥せるその動作は、そう…まるで……
(まじのキスする五秒前…)
我ながらなんと救いようのない発想だろうか、そう心中で自分を叱責しようとした瞬間、
自分の唇に触れる、柔らかく、熱い、それ。
キス、されている……?そう理解するのに、時間はかからなかった。
理解はできても理由が読めないその突飛な行動に心臓が打つ。
暫く互いのそれが重なっているだけの状況だったが、不意に特待生がどこかへ目配りをした。
釣られるようにその視線を辿ればーー
少し距離をとった場所で、スマートフォンを手に構える、平凡生徒の姿。
何故あいつはスマホをスタンバイしてるんだ、なんて突っ込みよりも。
俺が独占していたはずの視界を不意に他の奴らに奪われて、もやっとしたものが胸に広がった。
(なんだ、これ……なんなんだ、このきもちは……っ!!)
ムカつく、ムカつく。理由はわからないが、特待生の瞳が平凡生徒を映した瞬間…
「俺を見ろ!!」
どうしようもなく、悔しかった。
特待生の睫が僅かに持ち上がる。
だがそんなの構ってる余裕も今はなくて。空いている側の腕を特待生の首に回した。
より縮まった距離。
再び奪った、目の前の奴の関心。
…本来ならば、この条件が揃っただけで満足なはず、
(……まだ、まだ足りねえ……っ、)
だった。
募る苛々が跡形もなく散ろうとした瞬間、シミのように広がるモヤモヤが消えようとした瞬間、脳裏に過ぎるのは、なんでもないように、まるでいつものことのようにあの冷たい印象しか表さない特待生が平凡生徒に頼る光景。
特待生がこの学園へ編入してくる以前からの付き合いなのか、それは知らないが。端から目にしていて、納得するくらい2人の間に流れる空気は他のものとは一線違っていて。
当然だが、つい十数分ほど前に初めて言葉を交わしただけの俺とは比べものにならない。
なんて。んなの、当たり前だし、それ以上を望むほど強欲でもないはずなのに
「………っ」
こんなんじゃ、全然納まんねえ。
ぐっと顔を引き寄せる。これ以上ないくらい皆無な距離に、どしん、と胸に熱いものがこみ上げる。
(……つか、…は?)
こいつの性格からして、主導権を奪うのは困難を極めるものだろうと覚悟はしていた。試しに上唇を舐めたり、悪戯に甘噛みしてもやはりというか一向に隙は見せなかった。
だが、その予想は的を外して杞憂となった。
半ば諦めかけていた刹那、何故か、合わさっていたそれに不意に隙間ができた。
予想外の反応に正直狼狽える。も、それを見逃す術もなく。意外にも思えたが、あれだけ長いこと合わしていたんだ。酸欠したってなんらおかしくはないと内心で納得づけて。
恐る恐る、その僅かな隙間から舌を差し込んでいく。
「………ん、」
声を漏らしちまったのは、不本意ながら俺で。
悔しいことに思考回路不明な特待生の表情は相変わらず涼しげ空気を靡かせていやがる。
(ッち、その余裕ぶった面。むっしょーに…腹立つ、)
その憂さ晴らしに。言葉通り逃げも隠れもしない特待生の舌を、俺のそれで絡みとる。
深く、長く、特待生の余裕が音を立てて崩れるように、出来るだけ目の前の奴に快感を与えられるよう仁義を尽くす。
「………っんぁ…、」
「…………、」
も、特待生には効かず、浮かべている表情は相変わらず冷めている。
……っつか、初っ端からその熱にやられてんのは仕掛けた俺の方とか…
男として終わってんだろ…。抱かれたいランキング首位がキスごときでやられるとは、全校生徒が聞いて呆れる。
だが追い討ちをかけるように、尚強まる熱と、痛いくらい打つ鼓動。満足に息も吸えない苦しさで、酸欠でじわぁ…と視界に膜が張ってきた頃
「………ンンあ、っ!」
後頭部に手を回され、特待生の舌が俺の口内を撫でりあげるよう蹂躙してきた。
今まで抵抗一つ取らず、かといって嬌声をあげるわけもなく受け身に回っていた特待生が、初めて動きを見せた。
(ッ、なれてる…?)
幼稚にも互いの舌を絡み合わせるだけではなく。
「ン……ふァ、…っ」
上顎をチュ…とわざと音を立てて吸い上げたり、俺が飲みきれなかった口内の唾液を含ませることでより深まるキス。
こっちの快感を煽るであろうツボ、全てを抑えながら諮ったように徐々に激しさを帯びていくそれは
特待生が行為に慣れている紛れもない証拠だった。
「はいカシャリ」
吐き出す吐息ごと特待生に奪われるような錯覚に捕らわれていたとき、聞き覚えのある電子音と平凡生徒の声が、互いの口からひっきりなしに漏れていた水音を遮った。洗練されていたテクで攻め立てられる深すぎるキスに、不覚ながら酔いしれていた脳内ではうまく考慮できなくて。ふわふわとする意識の中、離れていく特待生の顔。互いの舌を名残惜しそうにツー…と銀色の糸が繋ぐ。それが無性に気恥ずかしくなって、ごしごしと袖で唇を擦った。
「ね、これ、なんだと思う?」
肩で息をする俺とは対象的に、息切れ一つ見当たらない特待生が、何かを俺に手渡す。誤魔化せない不信感で思わず眉根を寄せちまう。怪訝にも思えたが、有無を言わせない特待生の雰囲気に呑まれ、つい覗きこんでしまった。
のが、間違いだった。
「ーーーっ!!?」
渡されたのはスマートフォン。先程目に入った平凡生徒が構えていたものだった。
画面に映し出されていたのは、一枚の写真。
「よく撮れてるでしょ?」
納められているのは俺と、特待生がキスしている最中のところ。
それも巧いことに、構図には俺の姿と、俺と誰かがキスしていることがわかる箇所しか入っていなく、特待生の顔とタイの色は写らないよう外して写真を撮られていた。
スマートフォンを持つ手が震える。急激に熱が引いて背筋に冷たいものが走った。
「ど…して、」
ただ呆然と画面の向こうを見て、絞り出した声は、指先と同じくらい震えていた。
「どうしてかぁ。うーん…いうならば、そうだね。この写真は、フラグ折り兼人質、ってとこかな?」
まあ、人じゃないんだけどさ。
聞き慣れない言葉も中にはあったが、それよりも。
普段平穏に過ごしてさえいれば、俺自身が対象になる機会なんてそうそうお目にかからないようなその言葉に、ひどく動揺する。
「おまえ、…なにを考えてる?」
最初から、最後まで。
こいつの見ている、見ようとしている景色には、一体何が映っている?どれほどの存在が、お前の感情を突き動かして止まない?
「へえ…こんな状況でも冷静なんだ。さすが会長」
「褒められている気がしないな。…それとも、この質問も興味を抱けないなんて理由でだんまりか?」
キスを仕掛けたのは向こうだった。
舌を入れる際予想外なことに隙があいたのも、それに関わらず逆に優位をとり、慣れたようなキスで俺を熱に浮かしたのも
全てはこいつの作戦だったのだ。そして、愚かにもその罠にまんまと引っ掛かったのは、俺。
易々とキスには引っ掛かったものの、俺だって人質の意味がわからないくらいバカではない。
神宮聖の最重要ポストに就く生徒会長が、校内でどこの誰かもわからない奴と不純行為(といってもキスだけだが)を行うなんて。
打撃、好奇、そして失望。
それが、納められた写真を目にした一般生徒の抱く感情だろう。
特待生の言う通り、この写真は人質だった。俺を、俺の地位と人望を揺らすには容易すぎるほどの…
俺を慄然の淵に追いやるくらいそれを乱用すればなんてことはないくらいに、は。
「…会長、俺はね」
「主要人物になりたくないだけなんだよ。」
トサ…静かに床に押し倒される。掴まれた腕が熱くて、まるで全身が心臓になったかのように苦しくて、息も吸えない。
(押し倒される気分ってこんななのか…抱かれたいランキング一位に相応しく、親援隊はネコしかいないからな)
まさかこんな厳ついヤローが押し倒されるなんて、一体誰が想像すらできただろうか。それも自分よりよっぽど華奢で、見た目だけなら誰もが息を呑むくらい綺麗な顔をした、年下に。
腕力も遥かに劣っていたし、き、キスでも俺だけが声を漏らしてたし…
情けねー…
背中に広がる無機質な冷たさに身震いする。
(あ。そういえばスマホ、どこやったっけ…)
体は押えつけられて身動ぎ一つ満足にできない、から、視線だけ彷徨わせる。
捜索は不可能で幕を閉じた。何故って、他の景色を遮るように視界一面に、特待生の秀麗な顔が映ったから。
「曝されたくないなら、二度と俺に近づくな」
離れていく間際見た、特待生の顔は。
「次の教科、なんだっけ」
「…喜ばしいことにお前の嫌いな古典だよ、ばあーか」
遠ざかる足音と話し声。
全身が心臓にでもなったように、どくどくと脈立っていて。苦しくて、息も吸えねえ
ーー恐れていること、それはもし、あいつらが
特待生のことを気に入ったら。
「っ、んだよ、それ…」
ふと目にしたその横顔は、ひどく寂しそう、だった。
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