永遠の三時を

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永遠の三時を

 ある日も私は泥棒を働こうとして、獲物のもとへ向かっていた。  うららかな日のことだった。  ぽかぽかとしたあたたかさは私の気に障った。凍てついた存在を溶かす、そういう気温すらまだ憎い。そう感じられることに安心を覚えていたのだけど。  今日の獲物はカフェの予定だった。  古びたカフェ。前回訪れたとき、複数の時計が壁にかかっていたり、棚に置いてあったりするのを確認していた。  私は内心、歓喜したものだ。獲物は多いほうがいい。止まる時間は多いほうがいいのだから。  見咎められる危険を感じて一度で無理なら、何度か通えばいいのだ。  そしてすべて止めてやろう。一次的でも構わないから。それは一瞬の満足を感じさせてくれるから。  心の高揚を感じながらも私はカフェの扉に手をかけた。  そのとき、一瞬心がざわめいた。なんだか不穏な、冷ややかともいえる空気が中からほのかに感じられて。  しかし私はそのまま中に入ってしまった。もう二度とその扉を使うことが無くなるとは知らぬままに。      入った部屋の中を見て、私は絶句した。  確かにそこは、前回訪れたカフェだった。テーブルに椅子、カウンター、置かれていた観葉植物すら同じだ。  ただ、ひとは居ない。  けれどそんなことより、決定的に違ったこと。  壁にはぎっしり時計がかけられていたのだ。  棚にも隙間なく並べられている。明らかに異端だった。  立ちつくした私の背後。  ぎぃ、ばたん。  軋む音が耳に届いた。  ばっと振り返るとそこには誰かが立っていた。  いや、……誰かという表現はふさわしいだろうか?  ひとの形をしてはいたが、人間であるはずがなかった。それは顔を覆うウサギのような形をした面の不気味さからもあったからかもしれないが、一番は体温というものが感じられなかったことだ。命が息づいている気配がまったく感じられない。  そんな彼、……性別などありうるのかわからなかったが、発された声が低かったので、彼ということにしておく。  彼は静かに言葉を発した。 「ここのところ、時間を盗んでいるのはお前だな」  ごくりと私は唾を飲むことになる。  そのとおりだった以上に、平坦で冷ややかな声の中で、彼の意図だけは伝わってきたがゆえに。  時計を弄られては、止められては困りますよ、と苦言を呈される。そんなかわいらしく平和すぎる罰などではないことを。 「いくらの時間を盗んだか覚えているか」  訊かれたが、私は答えられなかった。喉が凍り付いたように言葉が出てこない。実際に覚えていないのもあったのだが、「いいえ」とか「すみません」とかも出てこない。  私が答えられないのはわかっていた、とばかりに彼は続けた。 「そのぶん返してもらう」  そしてそれは通告だった。 「お前が奪った時間の中で過ごすことでな」  彼は時間をつかさどるなにかなのだろう。  時間の神なのか、悪魔なのか、あるいは警察的なものなのかはわからない。どれでも変わりはないけれど。  彼は、すっと手を伸ばした。  痛めつけられるのか。  びくりと心臓が冷えた私だったが、その手は私に触れることはなかった。  代わりに、かたかたかたっと冷たい音が響いた。すべて違う音だったけれど。  私は思わずあたりを見回した。  そして理解する。  時計の針が、少なくとも見える範囲の時計の針がすごい勢いで回り出している。たいそう不気味な光景だった。  なんとなく予想はできた。  その予想は当たる。  急に、かたかたという音は止まった。  すべての針が、三時を指したことで。 「これがお前が奪った時間だ」  彼は持ち上げていた手を下ろして言った。 「時計の針では見えやしないだろうがな、お前の持つ時間ですべて補填してもらおう」  恐ろしい通告だったのかもしれない。  だが私の心には、『補填してもらう』。  つまり、この不気味な世界に居させられることを告げられて、妙に心が、すっとした。 「はい」  私がここで初めて発した言葉で、そして唯一の言葉がそれだった。彼からはなんだか満足げな空気が伝わってくる。 「どう過ごそうが自由だ。好きにしているといい」  これで話は終わったらしい。彼は私に背中を向けて、出ていった。  ごく普通に扉から。  違うところは、その扉はもう開かないであろうというところ。  試すつもりはなかった。だって、万一開いたとしても私はその出入り口から出ていくつもりなどなかったのだから。  すぅ、と息を吸う。湿ったような空気が肺を満たした。体を犯していくような、冷たい空気。  辺りを見回して、これはそのままだったカウンターの椅子に腰かける。  目の前には時計。  ずらっと並んだ。  でももう動くことはない。  私は頬杖をついてそれを見つめた。  見つめ続けた。      時計の止まった部屋の中。  私は妙に穏やかな気持ちだった。  ここでなら時間の中に閉じ込められてしまえる。  三時という時間にずっと囚われていられる。  もう戻ってこない、永遠の三時だ。  三時半はやってこない。彼を喪った、時間。  三時の中に居れば、後悔も懺悔も感じなくていい。ここまできても身勝手なことだ。  けれどそこに浸かってしまえること。  これこそが時間泥棒の得た罰どころではなく、極上の幸せなのかもしれなかった。 (完)
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