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バーでの『泥棒』
今日の獲物は薄暗いバーだった。
訪れるのは二度目だ。泥棒として下調べは重要なので、一度でコトを済ませることはほとんどない。
一度訪ねて、獲物を見つける。
そして奪えそうかどうか目星を付ける。
そのとき判断できなければ、二度、三度と通う。別に急いで奪うものではないのだから、時間をかけてもかまわない。それに駄目そうだと判断すれば、諦めて別のところを狙うのだからそれでいい。
しかし今日は首尾よくいきそうだと感じていた。
おまけにそう苦労せずに済ませられそうだった。なにしろ客から簡単に手の届くところにあるのだから。
「いらっしゃい」
からん、と入り口のドアベルが鳴る。
都合のいいことに、本日のバーにはそこそこ客がいた。席数も二十近くあるだろうか、そこの席が三分の一ほど埋まっている。理想的だった。
ひとが多ければ紛れることはできるけれど、見咎められる率は逆に高くなる。そのバランスが難しいのだ。
私はつかつかと中へ入っていって、適当な席を引いて座った。
カウンターの、真ん中あたり。
端の席のほうが都合がいいのだけど、生憎埋まっていた。端の席は人間の心理的に好まれるので、つまり人気があるということなのでこれくらい客が入っていればそりゃあ空いていないだろう。
「ウイスキー、ロックで」
オーダーはひとことだけ。私におしぼりを渡してきた、黒のベストを着たバーテンダーは「かしこまりました」とだけ言った。
すぐにグラスに入ったそれが出てくる。
ごつい円柱型のグラス。
丸い氷。
入っているのは琥珀色の液体。
ごくごく一般的な『ロック』であった。
無難な酒ながら、それゆえに一杯目にふさわしい。
同時にお通しも出てきた。
夏の折、どうやらこれはオクラだ。軽く茹でてかつお節と和えたものの模様。
よく出てくるのはナッツの盛り合わせなどであるが、この店は料理にそれなりに力を入れているようだ。オクラなんて食材を使うくらいには。
糸を引くそれを箸で持ち上げて、ひとくち。しっかりとした野菜のハリを感じられつつもやわらかかった。
オクラをちまちまと摘まみながら、ウイスキーも同じくちまちま飲み進める。どうやら原液をケチっているということはないようで、しっかりと深みのある味がした。
口にしながら、私はちらっとそちらに視線をやる。
獲物はそこにきちんとあった。
口のはしをあげて、私は軽く手をあげた。
「すみません、チェイサー」
バーテンダーに声をかける。バーテンダーは、ちょっと動きが止まったが、すぐに「ああ、」と言った。
「失礼しました」
その言葉と共にチェイサー、つまりグラスに入った水が出てくる。
ウイスキーにはこれがついてくるのが一般的。要らないという人間もいるけれど。このバーでは言わないと出てこないものなのかもしれなかった。
しかし水と交互に飲んで味わうのが理想的なのだ。言えばすぐに出てくるに決まっていた。
しかし私はウイスキーを味わいたくてこれを頼んだわけではない。バーテンダーの気を一瞬だけ引きたかったのだ。
「これはモルトかな」
「ええ、十二年ですね」
やはりごくごく一般的なものであった。
つまり、それほど面白い話題ではないということだ。
しかし的外れでなければなんでもいいのだ。ふたこと、みこと私とバーテンダーの彼が言葉を交わしている途中に、「すみません」と声がかかった。
ちょうどいい。
おまけにそちらに視線を向けると、バーテンダーを呼んだのはソファ席の客だ。
「はい」
バーテンダーの彼は返事をして、特に私になにも言うことなくその場を離れた。カウンターを出てそちらへ向かう。
私はなにも気にしていない、というふうでウイスキーをもうひとくち。
口の中で辛い液体を転がした。身の内に染みてくるような、味。
さて。
状況は整った。
私は席を立って、並べられていた酒瓶の前に移動した。酒瓶を見て見繕っている、という様子であごに手を当てて見つめる。
先程ウイスキーの種類について尋ねたおかげで不自然なはずがない。おまけに私と会話していたことで、次の客の対応に、数秒ではあろうが時間は余計にかかる。
確認する必要もなかった。
私が手を伸ばしたもの。
それは酒瓶の横にかけられた……時計だった。
バーに時計があることは稀だ。客に時間を見せないほうが儲かるに決まっている。
その時計はこっくりとした焦げ茶の木のもので古びた様子を見せている、どちらかというと装飾の意味でかけられているのだろう。
しかしきちんと時計としての役割を果たしていて、かちかちと針が動いていた。
指している針は、二十二時、ちょっと前。
時計を壁から外すことなく裏に指をやる。都合のいいことにツマミはごく普通に、電池の入っているだろう下、つまり時計の下部にあった。
指先だけで、きりきりとそれを回す。
もう慣れ切っているのだ。数秒しかかからなかった。
『盗み』はすぐに、首尾よく遂行できた。
私はもう一度、酒瓶を数秒眺めて今度は私がバーテンダーの彼を呼んだ。
「次はこれにしてくれないかね」
「宮城峡ですね。かしこまりました」
一本の瓶を指して、彼はそれではなくカウンターの中にあるであろうストックらしい瓶を取り上げた。私の二杯目の酒を作ってくれる。
なにも疑う様子などなかった。
それはそうだろう。時計の示す時間になんて気を配るような仕事ではないのだから。
下手をすれば、閉店後でも気付かれないかもしれない。
時計の針が現時刻ではなく、三という数字に合わされてしまっていることなんて。
おまけに最後にツマミを引っ張ったので、時間は三時で止まってしまった。
偽りの『三時』。
二杯目のウイスキーをやや早めに飲み干して、チェック。
「またくるよ」
「ありがとうございました」
帰りのやりとりも一般的極まりなかった。
ただ、私がもう二度とこのバーの扉をくぐるつもりはないという点が、ひとつの嘘だった。
仕事を終えた私は晴れやかな気分だった。
ウイスキーからの酔いも手伝って、見上げた空は星が静かにまたたいていて美しく見えた。
このように、時計の持つ本来の『時間』を奪うこと。
それが私の『時間泥棒』としての仕事であり、目的なのであった。
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