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【問3】平行線上の未来を求めよ
一週間が音沙汰なく過ぎた。
あれきり小鳥遊は職員室に来ない。
授業の前後に話しかけても来ない。今までは、ぶんぶん振り回される幻の尻尾が見えるくらいの笑顔で、しょっちゅう寄って来たのに。
職員室でインスタントのコーヒーを啜りながら、俺はうっすら聞こえる野球部の掛け声に耳を澄ましていた。
放課後になるとつい、あの事件のことを考えてしまう。
「二宮先生、おかき食べます?」
横からビニールの小袋が差し出されて、顔を向けると山本先生が湯呑み片手に休憩中のようだった。
コーヒーにおかき、合うとは言い難いが、ちょうど口寂しかった。お礼を言いながら受け取って、早速袋を開ける。
「小鳥遊に、何か説教でもしたんですか?」
「ぅえっ!? な、何でですか」
何気ない調子の言葉に、危うくおかきをぶちまけるところだった。変な声が出たのを山本先生がのんびり笑う。
「毎日のように会いに来てたじゃないですか。あいつ、国語は寝てばっかりのくせに」
「小鳥遊は二宮先生のこと大好きだよねぇ。私より懐いてるもん。ちょっと妬けるわ」
小鳥遊のクラスの担任でもある林先生が、向かいの席から笑って口を挟んでくる。
俺は何と言っていいのか迷い、二人の顔を交互に見た。
まあまあ懐かれている自覚はあったが、周りからそんな風に見えていたとは。正直驚いてしまった。
小鳥遊はあの人懐こい笑顔で、割と誰にでも愛想を振りまいているタイプかと思っていたが。
「来年は二宮先生のクラスがいいです、とか言うのよ? そんなこと、現担任に向かって言う、普通?」
憎たらしいわぁ、と言葉とは裏腹に笑う林先生に、ぎこちない苦笑いで返す。
山本先生も間延びした口調で「バカ正直な奴だなぁ」と笑っていた。
バカ正直。
本当にそうだ。
小鳥遊の言葉がフラッシュバックする。
キスされたときに壁にぶつかった後頭部の痛みとか、握られた手の熱さとか、それから、好きです、と言った瞳の、
「……バカか、あいつ」
ぽつりと呟いた声に、二人がまた同調して笑っていたが、もう俺の耳にはちゃんと入ってこなかった。
ゆるゆる歩く廊下はひやりと肌寒い。
いつの間にかすっかり冬らしい空気になっている。ついこのあいだまで、中庭のイチョウが黄色く輝いていたのに。
俺は自分の教室へと向かっていた。
特に用はない。いや、帰りのホームルームの後、教卓に忘れ物をした気がするから。何をって、何かをだ。たぶん何か忘れてきたはず。
いや、本当のところは。
別に、用はなかったけど。
その手前の教室で、窓際の席に一人で座る後ろ姿を見つけたことなんて、いや、だから。別に。
偶然だ。探したわけじゃねえって。
俺は開きっぱなしの戸口から、そのまま教室に足を踏み入れる。
先日俺の壁ドン童貞が散らされ、もしかしたら小鳥遊のファーストキスが遂げられ、アラサー男が生徒にちんこを触られ、危うく犯罪が成立しかけた現場だ。薄緑色のカーテンは、今日は静か。
放課後に一人で教室に残っている意味がわからなかったが、手元を盗み見れば理由がわかった。学級日誌だ。
どうやら日直だったらしい。
これはマジの偶然。
やっぱり小鳥遊には何か、そういう特殊能力があるんだろうか。ぼんやり思いながら、そっとひとつ後ろの席の椅子を引く。
小鳥遊の髪はふわふわだ。見れば見るほど犬っぽい。やわらかい栗色をしていて、でもきっと地毛なんだろう。染めているなら林先生が黙っていない。
あ、説教。
先刻の職員室でのやりとりが思い出されると同時に、そのワードがぽんと浮かんだ。
そうだ、説教だ。俺はこいつに説教するべき事があるんだ。
「……せんせい」
ペンを走らせる手を止めて、小鳥遊が振り向きもせず呟いた。
小鳥遊の後ろの席は誰だったっけな、と考えていた俺の肩が跳ねる。
「何で俺だってわかったんだよ」
「え、匂いで……」
「嘘……」
俺そんな独特のニオイすんの? 加齢臭……?
コンクリートブロックを頭にゆっくり乗せられたような衝撃に一瞬くらりとするが、小鳥遊は「せんせいの匂いくらいわかります」と当たり前のように続けた。
そういえばこいつ、結構、大丈夫じゃないんだった。
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