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【問1】二点間の距離を求めよ
あなたはいつも余所見ばかり、と振られて三日。
たった三日だ。結婚まで考えていた彼女、が元彼女、になって。
俺のマンションに置かれていた私物はその夜のうちに全て綺麗に持ち出された。と思っていたら今朝、取り込んだ洗濯物の山の中に紛れたハンカチを見つけてしまい、未だ乾いてもいない傷口をスプーンでえぐられたような、救いのない虚しさを一頻り味わってから出勤した。
そんな今日という日に、俺はなぜ、
「せんせいとセックスしたいです」
生徒に迫られこんな言葉を聞かされているのか。
どこからか聞こえる野球部の声。
肌寒いと思ったら案の定、窓が開いている。
先週は初雪もちらついたというのに、開けっぱなしで帰ったのは誰だ。説教してやる。
視界の端に小さくはためいたカーテンの薄緑色に目線をやったのは、まあ半分以上、現実逃避みたいなものだった。
「余所見しないでください、せんせい。俺真剣なんです」
ああ、似たような台詞、三日前にも聞いたな。前半だけだけど。ぼんやり思いながら、のろのろと視線を正面に戻す。
目の前に小鳥遊の顔、背後は壁。ブレザーを纏った腕により作られた檻で、左右の逃げ道は塞がれている。
いわゆる壁ドン。紛う事なき壁ドンだ。人生で初めて体験する壁ドンが、よもやする側ではなくされる側に立つことになろうとは。
これを現実として受け入れられる柔軟性は、失恋したてのアラサーの脳にはない。
「四月からずっと好きでした。一目惚れでした。運命感じました」
俺より十センチは小さいくせして俺の壁ドン童貞を奪い、真顔でトチ狂ったことを……もとい、告白らしき発言を繰り返す小鳥遊は、俺が数学を受け持っているクラスの生徒だ。
担任ではないが、よく職員室まで問題を聞きに来る、教師の立場からすれば教え甲斐のある可愛い奴だった。
そんな奴が、誰もいない放課後の教室なんてベッタベタなシチュエーションで、あろう事か俺を好きだと言っている。
「せんせい、俺、本気なんです。俺とせんせいは赤い糸なんです」
ゴリゴリの理系のくせに、そんな理論的でないことを切々と語る。
ややこしい方程式を解いているときのような真剣な目をして。非科学的な言葉で必死に俺を口説いている。
「だから、俺の童貞もらってください」
ーー口説くにしては、随分と酷い語彙ではあるが。
教え子で、もちろん未成年。
頭の中に犯罪の二文字が浮かぶと同時に、自分でもちょっとどうかと思うほどでかい溜め息が漏れた。
小鳥遊は男だが、同性とか異性とか以前の問題だ。教師と生徒が恋愛関係になったら立派な犯罪なのだ。
「……毛も生え揃ってないガキが何言ってんだ」
こいつ自身のためにも、この告白は笑って流して、冗談として処理するべきだろう。
そんな思いから、わざと下世話な言い回しをして軽薄に笑ってみせるが、小鳥遊はまだ幼さの残る唇を尖らせ、
「じゃあ、もっとチン毛モジャモジャになったらやらせてくれますか?」
と、下世話さで俺を遥かに凌ぐ切り返しをしてきた。
「そういう問題じゃない。第一、こんなオッサンの何がいいんだよ」
「オッサンじゃないです! ていうかせんせい、まだ二十八でしょ」
「お前とひとまわりも離れてんだぞ。来月になったら十三歳差だ。お前は良くても俺が捕まるんだよ」
「そうだ、来月誕生日ですよね! 八日ですよね! 何か欲しいものあります?」
「話を聞け」
若さ故の勢いか、はたまた年上への憧れのようなものか。
同い年の女子たちと毎日同じ空間で過ごす、俺からすればもはや羨ましい、高校というこの環境。そこに身を置きながら、よりにもよって教師で同性の俺を好きだという。
元々ゲイなのだろうか。
性の多様化、個の価値観の尊重が叫ばれる昨今だ。俺だって無論、いち生徒の性的嗜好を否定するつもりは毛頭ない。
ただ、それを向けられたところで、ストレートである俺には応えられないし、ましてや淫行条例違反で手錠をかけられるような道には、間違っても進みたくない、それだけだ。
こいつは割と顔が整っているし、社交的な性格だ。女子からモテそうなものだが、恋愛対象が男だけだというのであれば、それなりの悩みや葛藤もあるだろう。
さっきからセックスだチン毛だ何だと宣うその顔からは、そういう繊細さは微塵も感じられないが、きっと本当はそうなのだろう。そうに違いない。そうであってくれ。
男として小鳥遊の気持ちに応えることはできないが、教師としてそういう苦悩を受け止めてやることならできる。
と、心なしか痛み出した頭でそこまで考えたところで、俺は視線をはっきりと小鳥遊に合わせた。
悩みなら聞くぞ、というようなことを言おうとして、だ。唇を開いたのもそのためだ。
決して小鳥遊の舌を迎え入れるためじゃなかった。
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