【問2】条件を満たす値は存在しないことを証明せよ

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【問2】条件を満たす値は存在しないことを証明せよ

「だから……、まずはこのxをこの式に代入して……」 小鳥遊は飲み込みが早いし、察しも良い、多少ややこしい問題も解説してやればつつがなく理解する。 数学に関しては。 「それからyの値をこの変域に当てはめれば、条件を満たすzが割り出せるだろ……」 ふんふん頷く横顔は真剣そのものだが、どこか幼気でもあった。生徒のそういう表情が俺は好きだ。数学に限らず、新しいことを学ぼうとしている子供の顔は、純粋で未来があり、好ましい。 昨日の事件さえなければ、今日も素直にそう思えたのだが。 今日は朝イチから小鳥遊のクラスの授業があった。 当然、顔を合わせるのは気が重かったし、あわよくば欠席していてくれないか……と教師失格の望みを抱いたりもした。 が、足を踏み入れた教室に小鳥遊はいた。 特に話しかけてきたりはせず、かと言って気まずそうな顔ひとつ見せずに、至っていつも通りの様子で。 だから俺も普通の顔で授業をした。何も問題は起きなかった。起きたのは放課後だ。 小鳥遊は平然と職員室にやって来た。いつものように、高校一年生にはやや難易度が高めの参考書を抱えて。 「二宮(にのみや)せんせい、教えてください」と、あざといくらい可愛い生徒の顔をして。 「えっと、ここでyの変域をzで表すっていうのがよくわかんないです」 「ああ、それは……」 質問も明確だし、一聞いて十理解できる聡明さが小鳥遊にはあった。 そんな賢い奴が、なんでまた俺なんかに、あんな真似を。 昨日からぐるぐると何度も考えてしまう疑問が、再び脳裏を過る。 しかし相手が何もなかったような顔をしているのだから、こっちが狼狽えた態度をとるわけにはいかない。教師として、毅然としていないと。 そんな調子で、平静を装うことに必死だったものだから、いつの間にか人気がなくなった職員室の静けさにも、参考書から目線を上げた小鳥遊にも、俺は気づかなかったのだ。 「せんせい、昨日あのあとどうしてたんですか」 「え」 直前の質問と全く変わらない声音で紡がれた小鳥遊の言葉に、俺は一拍遅れて顔を上げた。 途端、真っ直ぐ覗き込む瞳とばっちり視線がかち合って、不覚にも怯む。 それから慌てて周りを見回して、まさか、と思う。 職員室だぞ。 残業した夜中ならともかく、まだ終業間もないこの時間帯なら、先生方が十数人は座って仕事をしている頃だ。現に、ついさっきまでは、隣の山本先生だって席にいた。 それがなぜ、こんなタイミングで無人になる。ありえないだろ。 思えば昨日だってそうだ、放課後とはいえ、誰が出入りしてもおかしくない普通の教室で、小鳥遊は例の凶行に及んだのだ。誰にも目撃されずに済んだのは奇跡に近い。 こいつは何かそういう特殊能力でも持ってるのか? 「ねえ」と、声変わりもしきっていないようなアルトに意識が引き戻される。 少し拗ねたような小鳥遊の顔は、やっぱりそこそこ整っていて、歳上のお姉さんとかにウケそうな感じだ。俺は歳上だがお兄さんなので、勿論そこには該当しない。 「ちょっと勃ってたでしょ。トイレで抜いた?」 さっきよりも少しだけ、一丁前にひそめた声で尋ねられ、半ば反射的に首を横にぶんぶん振った。 「抜いてない。勃ってない。昨日のことは忘れた。何もなかった」 「あ、ひどい。俺、本気なのに」 何がひどいだ。ひどいのはそっちだぞ。なかったことにさせてくれ、頼むから。 もう昨日から考え疲れて、思考停止気味だ。そんな俺に構わず、小鳥遊はまたしても「好きなんです」と繰り返した。 「毎日せんせいのこと考えて抜いてるんです」 「や……やめとけ、使えなくなるぞ」 「なんないです。ギンギンです。男同士のやり方も調べたし、絶対せんせいのこと気持ちよくさせてみせます」 「調べたのか……」 「調べました。イメトレは完璧です。知ってます? 男にはゼンリツセンってのがあって」 「し、知ってる。いや知ってるけど知らない。それ以上言うな」 昨日も思ったけど、こいつ、可愛い顔して言うことが結構えげつない。男子高校生なんてこんなもんかもしれないが、性欲に正直すぎやしないか。大丈夫か。 いや、大丈夫じゃなかった。こんなオッサンを口説いた挙げ句、性犯罪一歩手前まで行ってしまった。小鳥遊はすでに大丈夫じゃない。
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