オレとソイツ

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オレとソイツ

 オレがこの家に来たのは一ヶ月前だ。人間どもがぬるっちいと吐ぬかす風が、オレの予想通り夜中になりゃ土砂降りの雨に変わりやがった。   ソメイヨシノのババアとその取り巻きの虫どものせいで、オレは今夜を凌ぐ宿も食いもんもなく、渋々そいつの部屋の網戸に落っこちねえようへばりついたってわけさ。   深夜の闇にオレの体は同化する。風が何度もそいつのボロくせえアパートを叩いてらあ。        人間にとっちゃその風は、死神の徘徊を知らせているようなもんだが、当のホンニン達にとっちゃ、命乞いのノックなんだろう。まあ、人間がそんな簡単に開けてくれる程チョロいわけなく。見捨てられた風どもはキチ狂って、目に見えた物にぶつかりゃでけえ声で叫んでやがる。物にとっちゃ、とんだとばっちりだ。    斯く言うオレは、人間どもに見捨てられることすらされない。皆、汚物を見るように目を細め、口を引きつらせては悲鳴をあげる。それがオレだ。   ひっついている網戸は幸い軒下で直接的な雨の被害を免れているが、風が身にまとった細かな水分までは防げない。オレは横目で網戸の隅を見る、築何十年のオンボロアパートの網戸と窓枠の隙間はガタガタで、これならオレ一匹、いや、同種なら何匹でも余裕で侵入できる筈だ。   オレは暴風に吹き飛ばされねえよう、性に合わねえが慎重に窓の端に移動した。 冷てえ風を一身に纏いながら、なんとか網戸と窓ガラスの隙間に入ったオレは、一先ず安堵の息を吐く。   網戸の裏(人間にとっちゃ表)から悲しみのあまり暴れる風どもが往生際悪く入り込んで引っ付いた腹が冷たい。人の気配が静まっているのを確認してから網戸と窓ガラスの隙間も難なく通り、そいつの部屋に侵入したってわけだ。   しかし念には念を、オレは窓の溝に隠れて再度人間臭い物音はしないか足を澄ました。今夜は月もなく、周りもオレも真っ黒だ。視覚の半分も機能してなくとも匂いで溝は黒カビでびっしりだってことは分かった。自慢じゃないが、オレの長い触角は、黒光りの体にそりゃもう似合っている。   窓から数センチ段差になって置かれていた本棚の上に足を下ろす。チマチマとその上を歩いていると、片方の触角が何やら硬い物に当たる。石みてえに冷んやりとしたそれが、不思議でオレは両方の触角を何度も当てた。   その正体がでっけえ植木鉢だった時は不覚にもビビっちまったね。つっても、人間どもにとっちゃ、ちっさくて角が丸みを帯びた四角い湯のみみてえな鉢なんだろうがな。   鉢の上には多肉植物が一本、真っ直ぐと、あったかい土の上で優雅に葉を広げて寝ていた。   それがそいつとの出会い。でも当時のオレは出会いなんてパステルカラーみてえなことを想う余裕もなく、こいつを初めて見た時、只々水分と食料が一片にとれるなんて喜んでは、今夜を生き抜くことでいっぱいだった。   鉢によじ登る。ツルツルする表面は人間どもなら握力がなけりゃツルッと滑って床に落としてはガシャンだ。だがオレの手足は違うぜ、密着して登るのなんて朝飯前よ。触角といい、手足といい、オレは人間どもより勝っている。ざまーみやがれってんだ。   土の上に足が着いた。そいつの葉は平たく長い、プクリと膨らみがあって、茎から葉先にかけて浅く凹んでいる。呑気にスヤスヤ寝ているその姿は、なんとも美味しそうだった。     触角から伝わるそいつの感触が、今まで保っていた空すきっ腹の理性を壊した。オレは早く食いたくて食いたくて、柄にもなく焦っちまった。どうやらそいつに触角を当てすぎちまったらしい。 「ん……ご主人?」   そいつは眠たげな眼まなこを擦っているような柔こい声をだして起きやがった。 「私の葉に手を乗せているのはどなた?」   ぼやけた視界と暗がりの中で、オレの存在を認知しても姿はまだ分からないらしい。オレの正体なんて知らないままでいいんだ。身勝手な人間どもと違って、植物にとっちゃオレらはマジもんの害虫だからな。オレの醜い姿なんて知らないまま、その瑞々しい体を傷つけられてりゃいいんだよ。 「だまってろ、気が散る」   静かにそいつへ敵意を向きだした。 「まあ、失礼しちゃう。ヒト様の体に乗っておいて、名乗りもしないなんて」   どこか高飛車な、箱入り娘のような声。 「うるせえ、別に知らなくていい」   そいつが金切り声をあげる前に、オレは口元を葉へと近づけた。バンパイアだったらさぞやロマンティックだろうな。 「まったく、なんて身勝手なおヒトなのかしら」  瑞々しい体に歯をたてる寸前、そいつは人間嫌いのオレにヒトなんて抜かしやがったもんだから、空腹でイライラしていたオレはつい怒鳴っちまう。 「うるせえ黙れってんだ! オレは人なんてバカで愚かな生物じゃねえ!」    ドスを効かせたオレの声に、そいつは泣いて謝ってくるか、怯えて声もでなくなるかと思った。その隙に葉を半分食い千切ってやろうともな。 「じゃあ、一体誰だっていうの?」  けれどもそいつは、怒ったオレにビビりもしないんだ。首を傾げるように、心ん中で不思議に思ったことがポロっと口からでたような声色だった。   間が抜けたオレはそいつを見る。きっとそいつに目があれば、オレの心ん中もジッと見てきたに違いねえ。オレは居た堪れなくなってそいつから目を逸らした。いつだって、世間知らずに見えてどこか大人びた語調で話すやつだった。  そいつからお前は誰だと尋ねられた時、正直戸惑っちまった。  オレはオレの名前が好きじゃなかったからだ。だってよ、その名前を呼ばれる時はオレが邪険に扱われているか、殺される時しかねえと思っていたからだ。亡骸を見て周りは吐き捨てるんだ、キモチワルイってな。オレのお袋がそうだったように。 「……ゴ……リ……だ」 「え? ごめんなさい。よく聞き取れなかったわ。もう一度おっしゃってくださる」 「……ゴキ……ブリ……だ」  苦虫を噛み潰したようにオレはオレの名前を空くうにだした。人間どもの勝手で無理やり黒い煙を流す煙突の気持ちだ。  そんな苦しいオレの胸中とは裏腹に、そいつはキョトンと固まって、穏やかに笑いやがった。 「それはただの名詞ね。人間は『私は人間と言いいます』って相手に自己紹介するかしら。私は固有名詞、あなたの名前を聞きたいの」   さっきのオレの自己紹介を思い出したのか、フフフと微かに声を漏らして笑ってやがる。 「なに笑ってやがんだ。人間が宇宙人に自己紹介する時はこれで合ってんだよ。なんもオレは間違っちゃいねー」 「ふふ。あなた、面白い虫ね」   なんだかオレは拍子抜けで、それから変に恥ずかしくなったのを憶えている。 「うるせえ、名前なんてねえよ。ゴキブリはゴキブリだっての」   心ん中は、オレの嫌いな柑橘系みたいに甘酸っぱい片鱗がジワっときたもんで、気持ち悪いくらいに胸の辺りがくすぐったかった。 「じゃあ、私がつけてあげるわ。そうね……」   人間なら顎に手を当てて考えているって感じだ。あーでもないこーでもないと、そいつはひとりブツブツ呟いてやがる。  「……あ! ジョージ、ジョージっていう名前は」   稍あって、そいつは満開な笑顔が見える弾んだ声でそう言った。 「オレにそんな外来種みてーな名前、似合わねえよ……」 「そんなことないわ、とってもお似合いよ。ジョージさん」 「へっ、うるせえやい」  オレの腹が鳴った。そういやお腹が空いていたんだと思い出せば、さっきまでのくすぐったい気持ちから、いつもの気怠く陰鬱とした気持ちに戻った。皮肉にも、心に馴染む感情だった。 「あら、もしかしてジョージさん、お腹空いているの?」 「……別に」   グウ〜   盛大に腹が鳴った。 そいつはクスクス口元に手を添えたように上品に笑うと、何かを思いついた。きっと人間なら手を叩いていただろうな。 「そうだわジョージさん、私の葉っぱを一枚どうぞ。こんな寂しい夜に出会えたのも何かの縁、どうぞもらってくださらない」   これが育ちのよさってやつかね。そいつの優しさが、当時のオレにとってはどうも人間臭くて、嗚呼、そいつも所詮人間どもの所でヌクヌクと育ってきたんだなと、自分が虚しくなっちまったんだ。   オレはそいつを蔑んで鼻で嗤ってやった。 「へっ、施しなんてうけねえってんだ。いいか、オレはなあ、お前みたいに蝶よ花よと甘ったれて育てられてなんかいねえ、自分の事は自分でなんとかできんだよ」   そいつは茎を傷つけられましたって感じで何も言い返してこなかった。  仕方ねえ、他の食料を探そう。こんなボロいアパートだ、今夜はホコリでも食って凌しのごうじゃねえか。  変なやつに遭遇した。そいつとの出会いはそれで終わるはずだった。 「じゃあな」  オレは鉢から棚上に降りる。そいつに背中ならぬ尻を見せてこの場を立ち去ろうとした、  ボトッ   何か重たい、水分を含んだものが棚に落ちたんだ。  オレは音がしたそいつの方へ頭を戻せば、鉢の前に(俺の目の前に)一枚の多肉の葉が落ちていた。  飲まず食わずのオレには酒樽に見えて思わず生唾を飲み込む。樽ごといただきてえ気分をグッと堪える。 「何のマネだ」 「……別に私は、蝶よ花よと育てられてなんていないわ」  拗ねた声色だった。頰を膨らませているみてえだった。 「前のご主人はまるで私たちを機械みたいに育てては、お店に私やお友達を売ってしまったの。今のご主人と出会ったのだって、ついこの間。それに、このお部屋にはお友達も他の植物さんたちもいないのよ……。それは、あなたに比べたら恵まれた環境で育ったかもしれないわ。けれど……」  そいつは俯けに目を伏せるようにして話を続けた。 「……それはそれで、寂しいものなのよ」  そいつは「落っこちちゃったから、良ければ食べてくれないかしら」とオレに弱っちい声で言った。「もうひとりの自分なんて、お友達に欲しくないもの」とも。 「せっかく、話し相手ができたと思ったのだけれど、残念ね」  オレはそいつの落ち込んだ姿を見て、なんだかムシャクシャしたんだ。自分自身にさえ焦れったい感情が沸いてきちまった。  ええい、うるせえうるせえ! オレは弱っちいやつは大嫌いなんだ。  そいつが落とした葉っぱの前へ、重たい手足を動かした。  多肉の表面に歯を立てれば食ってやった、  ああそうさ、食ってやったさ。ムシャムシャ食ってやったぜ。 「バッキャロー、デカすぎんだろ。さすがに空腹でも食いきれねえよ」 「ごめんなさい」 「……次からは、もっと小せえのよこせってんだ」  そいつはオレが名詞を言った時みたいにキョトンとして、 「ええ、わかったわ。ジョージさん」  声を弾ませた。 そいつの葉っぱみてえに瑞々しい声だった。
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