私とジョージさん

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私とジョージさん

 なんだか重くて、ムワンと蒸した部屋。  窓ガラスの向こうは程よく風が吹いているらしいわね。靡なびく草木たちが気持ちよさそう。  それだけではないわ。風を切ってアスファルトを擦るタイヤの音が、くぐもってここまで聞こえてくるの。 「はあ……」  外と違って時が止まったように静まり返ったこのお部屋に、私の溜め息が漏れる。  ご主人は『こうぎ』というものに出かけていて私ひとりなの。三週間前にご主人に買われたのはいいけれど、ご主人ったら買って満足したのか、私のお世話を全然してくれないのよ。  そりゃあ、数週間くらい水がなくても私たちは平気よ。でもね、いない存在みたいに私に目もくれないご主人と過ごすのは悲しいわ。私を買った当初は (三日間だけ)私をテーブルに持ってきては愚痴を語っていたものだから、余計に悲しくなっちゃうの。  そんな思い出に浸りたくなくて、私はもう一度窓ガラスの向こうを見る。けれど胸の中の悲しい気持ちは募るばかり。  なんだかね、閉ざされた窓から見える靡く草木たちを見ていると、私も久しぶりにそよ風を感じたくなっちゃって、このままでいいのかなって焦っちゃうの。これから天気が良くなればなるほど、私はなんだか楽しくないの。太陽さんがしんどいの。  なんて物思いに耽っていると、一匹の虫さんが網戸にへばりついてやってきたわ。  彼だと分かるとさっきまでの気のめいりが潮のように少し引いていったわ。彼は油性マジックのキャップのような体を器用に動かして、窓と枠の隙間をくぐり抜けてお部屋にやって来た。 「ジョージさん! 会いたかったわ」 「あー、うるせえうるせえ。セミかテメエは、昨日も会っただろ」  悪態つくジョージさん。きっと人間なら眉間に皺を寄せても耳は正直に真っ赤になっていることね。ふふふ、可愛い人。  私は天辺に生えていた小さい葉っぱを一枚落とす。そのコは下に生えている一回り二回りも大きい葉っぱたちに引っ掛かって棚の上には落ちなかったわ。 「外は暑くて大変だったでしょ。どうぞ召し上がって」  無愛想にジョージさんは頷いて何も言わず、私によじ登って小さい葉を口に咥える。いつも棚に戻ってから食すの。棚に戻っていくその間、彼の手足がこしょばゆいったら。  彼が食している間、私は手持ち無沙汰になってまた窓を眺めたわ。 「……はあ」  思わずまた溜め息がでちゃった。クセになっては駄目ね、気をつけなきゃ。 「……なんだよ、溜め息なんてらしくねえ」  食べ終わったジョージさんが話しかけてくれたわ。普段は私から話しかけないと滅多に話そうとしないのに。心配してくれたのかしら。ぶっきらぼうだけど優しいヒト。 「ご主人が相手にしてくれないの。それに、そよ風を感じたくてもできないことがなんだか悲しくて……」  どんよりとした胸の内をジョージさんに話してみたわ。ご主人が私にしてくれたみたいにね。  そしたら、彼ったら酷いのよ。私が話し終えると鼻で嗤ってこう言ったの。 「へっ、無い物ねだりだね。人間に好かれてもいいことなんてないっての。風を感じたいって、はっ、風なんて、夏になったら扇風機からくるんだからいいじゃねえか、こんな部屋に住んでんだ、エアコンなんて冷てえ風は滅多にこねえとおもうぜ」  彼の何気無しに言った言葉でさらに悲しくなったわ。裏切れたように心が痛んだのよ。 「ヒドい! あなたって、本当デリカシーのない最低な虫ね!」  思わず怒っちゃった。そっぽを向いた私にジョージさんは何も言わない。だから私、彼がこのまま呆れてどこかにいっちゃうじゃあって、すぐに怒ったことを後悔したのだけれど、彼ったら、困惑した表情で、 「……なんだよ、そんなに怒らなくてもいいだろうよ」  まるで拗ねた子どもみたいにジョージさんは窓ガラスと枠の隙間に戻っていったわ。なんだかいつにも増してお尻が寂しそうだったわね。でもいいのよ、私だって怒ることはあるわ、何気ない言葉で傷つくの。誰だって怒ることはあるのよ。例えそれが大切なお友達でもね。  どのくらい眠っていたかしら、窓の外から子ども達の元気な声で目が覚めたわ。窓の外で男の子、女の子分け隔てなく話している弾けた笑い声。 「……おい」  部屋の中からそっけないコどもが私を呼んだわ。 「あら、ジョージさんいらしていたの」  なら起こしてくれたら良かったのに。変に思い悩むヒトね。 「その葉っぱは?」  ジョージさんの足元には、私とは違う薄くて平たい、葉脈がしっかりとついている葉っぱが敷かれてあったわ。  その葉っぱの形からして、ソメイヨシノさんかしら。緑が瑞々しい、元気いっぱいなところが彼女らしいわね。でも、なんで彼が彼女の葉っぱを……。 「まさか! 無理やり葉柄を囓って盗んできたの……?」 「バッキャロー! ……んなこともうしてねえよ」  彼は口をモゴモゴと決まり悪く動かしてそう言ったわ。 「ちゃんと頼んでもらってきたっての」  彼が誰かに頼み事をするなんて、虫も成長するものね。なんだかソメイヨシノさんに妬けちゃうわ。 「わざわざ食べるために頼んだの?」  ジョージさんが彼女に葉っぱを頼む姿を想像すると、なんだか心がもやもやしたわ。捻くれていてぶっきらぼうだけれど、実は優しいのは私だけが知っていればいいって。 「ちげえよ」  そう言うとジョージさんは葉よう身しんと葉柄ようへいの付け根を口で咥えて、鉢植えの上を何度も左右飛んでは行ったり来たりを繰り返したの。急にやり始めたものだから私、来る途中に頭でもぶつけたんじゃと慌てちゃった。  でも、それが私のために必死に煽いで風を起こしているのだと気づいたら、なんだかすごくその謎の行動が愛らしくおぼえた。 「……ありがとう、ジョージさん。外の香りがしてとっても気持ちいいわ」  ジョージさんは疲れたのか動きを止めて、口から葉っぱを離したわ。彼はずっと咥えたままだった顎をさすりながら、息を整える。 「へっ、気持ちいいことあるかい、お世辞なんてよせやい」  子どもっぽく、つっけんどんに照れるジョージさん。 「本当よ、今までに出会ったどの風よりも気持ちいいわ」  ジョージさんは鼻で返事を返してそっぽを向いたけれど、きっと耳があれば真っ赤ね。  なんだか私の葉っぱの水分が少し減った気がして、顔があれば私も真っ赤なのかしら。きっとね。
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