オレとアイツ

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オレとアイツ

 セミの念仏が鳴り響く。ヤツらは自分の余生が残り少ねえ恐怖と、続く猛暑のせいでトチ狂った頭がおかしい集団さ。仏しか信じられなくなっちまった哀れなヤツらだ。まあ、人間どもにションベンをひっかける信条を見るところ、案外わるくねえ宗教かもな。   窓ガラスからの陽射しを睨みながらいつもみたいに葉を食おうとあいつによじ登っていた時だ。手足から伝わる葉の感触に張りがなく、登り下りにいつもより時間が掛かった気がした。  本当に微差程度の感覚だぜ、だからその日は単にオレの腹が減って疲れてんだと、特に気にしなかったんだ。  明くる日に、そいつの葉先にかけて濃くなっている綺麗な赤紫色の葉に、黄ばんだ紙みてえな染みができていても、あいつが、 「最近、雨の日が続いていたのに急に晴れだしたでしょ。だから焼けちゃったのよ」  なんて呑気に笑って答えやがったんで、オレは些細なことだと思って気にしなかった。  そいつの「大丈夫」は大丈夫じゃねえって気付けなかったんだ。  そんな違和感が肥大化し、些細な問題じゃないと気付いた時には、そいつはろくに返事ができねえくらいに枯れがれだったってのによ。 「おい! なあ、おい、どうしたってんだ」 「……み、みず」  そいつは蚊が鳴くような声でそう言った。 「みず……ほし……い……の」  オレは焦ったね。そうだろ、死に際を見てしまう恐怖ってのは人間だって大往生ですらみたくねえだろ。  オレは辺りに水がねえか見渡した。虫でも見渡せる六畳一間、テーブルに置いてあった飲みかけのペットが目に入ったんだ。 「ちょっと待ってろ!」  オレはそいつの元から離れ、飛んでテーブルへと降下した。テーブルの上に着くと、ペットボトルの上部分がやけに蒸発して白っぽくなっていて、おかしいと思ったんだ。あの野郎、今日にかぎってキャップをきちんと締めてやがる。いつもはあと一口二口分残してはキャップを締めずに放置しているのによ。 テーブルの上にペットボトルを倒して水を口に含んで運ぶオレの計画がパアになっちまった。  オレはテーブルから畳に降下し、全速力で台所を目指した。 息も切れ切れで台所に着いたオレは、流し台に向かうべく今度は開き戸から登っていく。  流し台の縁に着いた頃にはヘトヘトで、洗い桶すらないカラッカラの流し台を見た時は絶望したね。強力な電波で頭がグワングワン揺れているみてえに動けなかったんだ。所詮、オレは非力で醜いクズなんだってのを、再認識させられたみてえだった。  追い討ちをかけるみてえに、外から聞こえるセミの賛美歌が、さらにオレの心を荒ました。 「クソったれ! ミンミンツクツクうるせえってんだ! 神がいるなら家の中に雨でもふらしてみやがれ!」  叫んだところで何も変わらねえってのは、オレが一番よくわかってんだ。何もできずに叫んでいる間も、棚の上でそいつは目が痛くなる陽射しを一身に浴びて苦しんでいる。 「……すまねえ……すまねえ……」  オレは流し台の縁で殺虫剤でもかけられたように縮こまっては、声を押し殺して泣いたんだ。 「……だ……い……じょ‥‥う……だ‥……い……じょ‥‥う……ぶ」  棚の方からあいつの譫言うわごとが聞こえてきた。途切れ途切れのその言葉に、オレは自分が情けなくて情けなくてもっと泣けてきちまった。   どれくらい泣いていただろうな。喪失しきった目で縁に留まっていたら、セミの声に混じって自転車が止まる大げさな音が聞こえてきた。  やたら近い、このアパートの駐車場に置いたってことは、ここの住人か。  しばらくすると階段を上る鉄骨を踏む音がした。通路を通る足音の震動が、縁に置いた手足からでも伝わって来る。  足音はオレらの部屋のドアの前で止まった。  その時、オレはある考えを思いついたんだ。今覚えば、憔悴しきったオレは夏の暑さとセミどもの賛美歌で頭が参っていたんだろな。  人間が鍵を開けて、玄関に入ってきた。ドアを閉め、目の前の視界を外から部屋の中へと切り替えたと分かると、オレは大きな賭けにでた。  見下ろさなくとも人間の視線から斜方、かつ、降りたら棚へ真っ直ぐ飛んでいける位置に、オレはわざとバレるよう大げさに降下した。 「ーーうわ! ちょっ、まじかよ!」  人間は、今まで一身に浴びていた陽射しがなくなって、まだ目が慣れてねえのか、遅れて反応してドアに背中をぶつけてやがる。その震動がオレの手足にも感じられたが、んなこと関係ねえ、オレは一直線にあいつのいる棚へとうさぎ跳びみてえにブサイクに飛んでいく。  背中を痛がりながら急いで靴を脱ぐ人間、踏み荒らしているようなでかい足音で台所に近づき、中腰になって引き戸をあける。殺虫スプレーを手に持ってオレの方へソロリソロリと近づいてきやがった。なんだ、それで忍び足のつもりかっての。 「え、これってこのままかけてもいいの……」  何してんだがオレの後ろに突っ立って畳がどうのこうのとなにやら一人でブツブツ呟いてやがる。まあ、こっちにしちゃあ、大助かりだがな。  人間が戸惑っている間にオレはなんとかあいつのいる棚の真下に着くことができた。  これでオレの仕事は終わった。  最後だ。  人間は意を決し、動きを止めたオレに殺虫スプレーを噴射した。素人が、そんなに掛けなくともいずれ死ぬっての。  人間はスプレーを吹き終えると、オレから視線を逸らさぬよう、後ずさりしながら便所にはいっていった。  トイレットペーパーを手に巻きつけている軽薄で大雑把な音が手足から伝わって来る。薬が脳にまわってきたのか、その震動もやがて船に乗っているみてえに不安定な揺れで全身を包む。  手足も痺れてきて動かねえ、そのくせ羽は制御が効かない自動ドアみてえに閉じたり開いたりするもんだから、跳ねてひっくり返って仰向けになっちまった。  人間が大量の紙切れ片手に痙攣しているオレの手足を嫌そうに見守ってらあ。その目ははやく死ねって言っているぜ。  オレは霞かすんでいく視界の中、真上をみた。棚が塀みてえになって、あいつの顔は拝めなかった。いや、それでいいんだっての。  全く皮肉だぜ、最期に見取られるのは大っ嫌いな人間なんて。まあ、新聞紙でぶっ叩かれたオヤジよりましか。  羽はもう、壊れて動かなくなった。触角もゆっくりと上下に動いたっきりその動きを止めた。手足の感覚もだんだん分からなくなってきやがった。  ……そう……いや……まだ……あいつの名前……いっかいも……  肌触りがわりい紙にガシッと潰すように包まれたところで、オレの視界は何も見えなくなっちまった。 
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