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あれからもう何人もが俺の横をすり抜け、崖から飛んで行った。もちろんどの人間の手にも、少年の言う「夢の傘」が握られている。
俺はその後ろ姿を体育座りで眺めることしかできなかった。
1人はスーツを脱ぎ捨て、手ぬぐいを頭にねじり巻き、ラーメン屋のエプロンをつけて飛んで行った。
1人は左手の薬指から指輪を投げ捨て、小さな子どもたちと手を取り合い、痣だらけの腕でぎゅっと抱きしめて飛んで行った。
何人もの飛行を見ていて分かったことがある。彼らは皆、夢を抱いて飛んで行ったのだろうこと。
そして、傘は白だけではないこと。
赤、青、ピンク
人の数だけ傘の色は違った。同じ色でも少しずつ色合いが違う。そして大きさも、形も、様々だった。
夢の数だけ傘があるのだろう。
そんなことを考えているとまたもう1人、夢の傘を広げ飛んでいった。
なのに俺も飛んでいきたいとは全く思わなかった。なぜなら崖の向こうは相変わらずの悪天候で、奈落の底はどこまでも暗闇だったからだ。
それにひきかえ、俺の居座るここは時間が止まったかのように穏やかだった。随分長い間ここにいるが、腹が減ることもなければ喉が乾くこともない。暑すぎず寒すぎず、ハリボテの晴天の下、それはそれで穏やかな時間が流れていた。
そして変わらず少年は俺の側に居座り続けていた。今は暇そうにぶちぶちと草を千切っている。
「……おにいさんはとばないの?」
「飛べない、の間違いだろ。俺には夢の傘がない」
「あるよ。おぼえてないだけじゃないかな」
少年の機嫌が徐々に悪くなっていくのが分かった。暇すぎて痺れを切らし始めたんだろう。だから子どもは苦手だ。こいつもさっさと飛んでいってしまえばいいのに。
そんなことを考えていると、少年がまたぽつりと話し始めた。
「おにいさんさ、なんでここにきたかわかる?」
「分かったら苦労しねぇよ。分かるならさっさと帰ってるだろ」
「かえってもいいの?」
「え?」
少年の、5、6歳にしては随分と冷え切った瞳に思わず時間が止まってしまった。
帰ってもいいのか、だって?
当たり前だ。さっさとこんな訳の分からない空間から抜け出して俺は、俺は……
俺は……?
その時冷たい悪寒が全身をゾワリと駆け巡った。思い出したからだ。昨日の出来事を。
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