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「無理だろ、それじゃ」
「無理じゃないわ。飛べるわよ」
「その、旦那になる人何か問題あるのか? 収入が低いとか、ギャンブル好きとか、女にだらしないとか……」
「無いわ。何一つ無い。高収入で真面目で紳士、賭け事も浮気だってもちろんしないでしょうね」
「だったらなんで」
最後の言葉はほとんど懇願に近かった。恐らく飛べたとしてもすぐ雨に打たれて終わりだ。彼女が赤の他人であったとしても、俺はそんなの見たくない。
しかし彼女の目は一切迷うことも不安に揺れることもなかった。
「私、医者なの。国境なき医師団に所属して海外で医療に貢献したいと思ってる」
「……は?」
「ふふ、ほら、君も今私のこと馬鹿にしたでしょ? 縁談なんて女医には貴重すぎる機会を無駄にして、結婚式一歩手前で逃げちゃうなんて」
「ばっ、馬鹿になんか……」
馬鹿にはしていない。でもなんて馬鹿なことを、とは思った。
「先にあるのは安定した未来よ。私は仕事を辞め、家庭を守り、いつか生まれる子どもと彼のために一生を使うの。安全で、幸せと定義される未来。それがあと一歩で手に入ってしまうって思った時、急に自分が消え去った気がしたの。あの日食べたディナーの味は忘れられない。まるで砂みたいだった」
ふと、進路希望調査表を提出した時の自分と重なった。あの日どうやって帰ってどうやって部屋に入ったか、何一つ覚えていない。明確に覚えているのは自分という存在が消え去ったという漠然とした感覚だった。
「馬鹿者って言われても、女らしくないって言われても構わない。だって馬鹿で男勝りでも、こんなに弱くて情けなくっても、全部私だから。全部抱いていく。この傘は私の全てなの」
希望なのよ。
そういうと、彼女は僅かに震えていた両脚を叱咤するように叩き、スッと前を見据えた。そして、今まで出会ったどんな女性よりも輝いた笑顔で彼女はふわっと飛んで行ってしまった。
細められた目、紅潮した頬、白い歯。彼女の最後の姿が海馬に焼きついた。
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