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「馬鹿やろ!!!お前、もう会社来んなよ!!! 」
大人になって、罵倒されるのは初めてだった。僕は会社を飛び出した。
僕は路上に座り込んだ。
もう一歩も歩けなかった。
だれか……だれか助けて。
昔からそう叫ぶと、誰かが助けてくれるというけど、それは嘘だと思う。
困っているとき、絶望してピンチの時、友達が助けてくれるとか、恋人が助けてくれるとか言うけど、それも嘘だと思う。
僕はビルとビルの隙間に座った。
ここなら人目につかないだろう。
ここで一晩過ごして、明日の朝また考えよう。もうたくさんだ。もう、俺……やめたい。
僕は近くにあったゴミ袋をいくつか物色して、枕になりそうなものを選んだ。それから立てかけてあった段ボールを引きずって合間に持ち込んだ。
どこかでクチナシの花が咲いている。
地面に沿うような、重く密度の高い、どんよりとした甘い匂いがする。
段ボールは僕の身体の半分しかなかった。背中が痛くないのだから、文句は言えない。6月なのに、地面はひんやりしている。地べたに直に接触している僕のふくらはぎは冷えて不愉快になっていた。
僕はうつらうつらしていたのだろう。全く雨に気がつかなかった。
段ボールは湿り始めている。
このビルの谷間は屋根がないため、しっかりと雨が落ちてくるようになっていた。
忌まわしい雨だ。
僕はぶるっと身震いした。
小雨とはいえ、シャツにズボンが濡れて身体の熱が奪われていく。
僕はゴミ袋と段ボールをずるずると引きずり、ゴミ捨て場のところで手を離した。
段ボールはへにゃとゴミ袋の上に倒れた。
僕は当てもなく歩きはじめた。
商店街のアーケードに入るにせよ、地下街に入るにせよ、あまりに汚くては追い出されるかもしれない。
僕は自分の匂いを嗅いだ。
うん、大丈夫だ。まだ臭くない。
今日から路上生活と思っていたんだから、当たり前だけど。でも路上に転がったからもう汚くなっているかと思ったんだ。
僕は自分自身に言い訳した。
お尻や背中に汚れがないか確認すると、まだ大丈夫だった。
路上生活をしようとした1日目から、雨とは……ついてない。
僕は空を見上げた。
どんよりとしてる空から小さな小さな粒がたくさん落ちてきている。
商店街はガラガラとシャッターを閉めはじめている。あと数時間すれば、商店街は完全に眠りにつく。
僕はそれまで屋根のあるところで過ごせばいい。商店街が全部しまったら、商店街のアーケードのところで、どこかの目立たない軒下を借りて寝よう。
僕は街から少し離れ、休めるところがないか探すことにした。
この街に住んで三年。就職するために引っ越してきたが、こんなところに公園があるなんて知らなかった。
滑り台の下なら濡れない。
滑り台の色は夜だからよくわからなかったが、ぞうの形をしているようだ。真ん中はトンネルになっていて、子どもたちが探検できるようになっている。
僕が小さい時もラクダの滑り台があった。なぜラクダなのかわからなかったが、ふたこぶがあり、こぶとこぶの間から滑るのだ。ヘンテコな形の滑り台だったけど、子どもたちには大人気だった。
きっとこのぞうの滑り台も大人気なはずだ。
僕はぞうの滑り台のトンネルにもぐりこんだ。
雨やめばいいな
コンクリートでできたトンネルは容赦なく僕の熱を奪う。雨でというよりぞうのせいで具合が悪くなりそうだった。
もうどうしようもないと思って、逃げたくなって、僕はここにいるけど、具合が悪くなるのは嫌だった。
車が公園のそばを通る。雨で濡れた道路を走る音がする。
「ギャー」
すごい声がした。
僕は慌てて外に出る。
まだ雨は降っていた。
車はもうなかった。
そこには血だらけの猫が転がっていた。
僕はどうしたらいいのかわからなかった。
猫は僕の方に頭を向けた。そして「ニャー」と鳴いた。小さな声で。
僕は猫を抱き抱えた。
近くにどこか診てくれるとこはないだろうか。
僕は猫を抱えて走った。
明るく人のいる方へ向かった。
猫を抱えた僕をみて、人々は道をあけた。
僕は声を上げた。
「誰か!誰か病院知りませんか」
夜の10時をまわっていた。
人々は家へ急いでいる。面倒ごとに関わりたくないとばかりに誰一人目を合わせない。
「誰か!!!病院……」
僕は消えそうな命を抱えていた。
まだ温かい。まだ助かるかもしれない。猫は薄目を開けて、僕を見つめている。
人々は誰一人僕をみない。
僕は商店街をキョロキョロしながら急ぎ足で歩いた。
アーケードが切れた、その向こうに獣医病院の看板があった。僕は交差点を急いで渡り、看板の矢印に従って、病院を探した。
「ピンポン」
僕は呼び鈴を鳴らしたが、反応が待ち切れず、ドアを手で叩いた。
「すいません!!助けてください!!」
ガラス戸の奥から足音が聞こえてきた。
早く……早く……
足音はどんどん大きくなり、病院の玄関に電気が灯る。
「すいません!猫が……猫が……」
僕が大声で言うと、先生らしき男性は急いで扉を開けた。
僕は待合室で待っていた。
シーンとしている。
僕はふと手を見た。
血がついている。
僕は洗面所を借り、手を洗う。上着やシャツにも猫の血がいっぱいだ。
どうか、どうか助かりますように。
僕はそんな思いでいっぱいだった。
--1時間後。
先生が待合室に戻ってきた。
やっぱりあの男性が先生だったようだ。手術着っぽい服に血がついている。
先生の表情からは何も読み取れない。僕は覚悟を決めた。
「先生……」
僕は先生に詰め寄った。
「命には別条ないから。また明日来なさい」
先生は僕に帰るようにいう。
僕の力が抜ける。
「先生、実はあの猫、拾ったんです。ちょうど惹かれたところに居合わせて……」
僕がもごもご言うと
「ああ、そうだと思った」
先生は呆れた声で言う。
「もう大丈夫だから。どうする?あの猫、君が面倒みるかい?」
「……は、はい」
僕は思わず返事をした。
「もう大丈夫だね」
僕は先生の顔を見る。
「君も死にそうな顔をしていたよ。家に帰って、とりあえず寝なさい。それから明日迎えに来なさい」
「……」
僕の目が潤む。
「猫を飼うための準備もいるからね。生き物を飼うには責任が伴う。君は優しいというのは分かった。あとは生きるんだよ」
僕はうなづいた。
「まだ雨は降ってるね。傘、持っていきなさい」
僕は先生に傘を持たされ、ドアの方へ導かれた。
「明日、待ってるから」
僕は「わかりました」と言って、傘をさす。
どこかでクチナシの甘い香りがする。空気に混じった、重く、密度の高い、甘い花の匂いは僕の服について血の匂いと混ざり合う。
肌寒い夜だ。血の付いた上着を脱ぐのはためらわれた。もう遅いからだれもみてないだろう。
僕は胸元に着いた血を隠すように傘をさす。そして暗い道を急いだ。
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