鮮血の痛み分け

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 カウンセラーの仕事を始めたのは、僕自身に向いていると勝手に思ってやり始めたことだった。最初に作った名刺を見ながらそう思い返していた。『炭葉並彦』と書かれた名刺も、今ではすっかり見慣れたものだ。  実際仕事はやりがいがあるし、僕が担当した患者さんが元気になっていくのは嬉しいことだ。カウンセラー冥利に尽きる。そんな中でも、僕には忘れがたい経験がある。あれは僕がカウンセラーになって、一年ほど経った頃の話しだったと記憶している。多分あの頃からだろう、僕が血を見ると顔をしかめるようになったのは。  別に他言するなと言われているわけではないが、好んで語りたい記憶ではない。だがもうあれから何年経っただろうか。そろそろ誰かに聞いて欲しい。これは回顧の記憶であり、僕自身の懺悔の物語だ。いや、実際には物語にすらなれなかった何か。赤く、紅く、朱い記憶を——語るとしよう。             ●    「炭葉先生聞いてください。ずっと夢を見るんです、死ぬ夢を」  患者の名前は確か、斜坂さんといっていた。社会人になって三年、真面目に勤勉に働く今時珍しいほどの人間だ。しかしカウンセリングに来るほどの精神状態なのか、顔色が随分悪い。  待合室に常設されているテレビの音がカウンセリングルームまで聞こえてくる。連日報道されている麻薬組織摘発事件は今だ鳴りを潜めることなく、アナウンサーがもう飽きるほど読み上げたであろう原稿をプロ意識に任せ読み上げる声が聞こえる。  「斜坂さん、それは皆誰だって一度は見ますよ。それに夢占いで、死ぬ夢は吉兆の前ぶれだとか言われるじゃないですか」  「そんなんじゃないですよ! とてもリアルで、夢だとは思えない。夢の中で、俺が顔に真っ赤な血を被ってるんだ。俺はきっと死ぬに違いない!」  「その夢は、最近になってから見るようになったんですか?」  「確か……そう、俺が高校生だった頃から見るようになったんだ」  斜坂さんは僕の目の前で、腕を組みながら思い返していた。今日は有給でも使ってきたのか、ポロシャツにジーンズというファッションという出で立ちだ。  「修学旅行の帰りの新幹線の中で、俺は弟に揺り起こされたんだ。ひどい汗をかいていて、その時は長旅の疲れが出たのかと思っていた。でもその後もずっと同じ夢を見る。最近じゃあ毎日のように見るんだ。もう俺は……」  と、そこまで言いかけて僕はストップをかけた。言葉には力が宿る。それ以上口を開けば彼はきっと本当に。  「きっと思い過ごしですよ。働きすぎてるんだ、とにかく今はゆっくり休みましょう。睡眠薬も必要であれば多めに出すように言っておきますから」  「そ、そうですか。確かに最近は残業が続いていました……そうですね、今日は帰ってゆっくり休むことにします」  「えぇ、それがいいですよ。それに弟さん、でしたっけ。たまには家族の声を聞くのもきっといい療養になるでしょう」  「そうですね。そうします。そういえば忘れてましたよ、昨日弟から電話があって今日の夜久々に弟が遊びに来るって言ってたんだ」  「それは良かった。弟さんと水入らず、兄弟の語り合いも大事な時間でしょう」  僕のアドバイスを聞き入れてくれたのか、斜坂さんは納得したように帰っていった。一応念のため睡眠薬も出しておいたし、きっと彼はこれで大丈夫だ。 僕は自分の仕事に満足したし、彼もきっとこれで元気になる。カウンセラーになって良かった、僕はその日いつも以上にその実感を覚えていた。    その日の仕事は随分と遅い時間帯までずれ込んでしまった。時刻はすでに二十一時を回っており、帰り着くのは恐らく二十二時を過ぎるだろう。帰りがけにコンビニにでもよって晩御飯を調達しなくては。僕は結婚してないので、帰っても待っているのは水槽の中の熱帯魚だけだ。  片付けをしながら、今日カウンセリングした患者さんのことを思い返していた。最初にきた患者さんは殺人恐怖症に苛まれていた。自分がもしかしたら誰かを殺してしまうのではないか。それが殺人恐怖症の正体だ。実はこの症状は誰にでもなりうることで、心療内科などのセラピーで改善することができると言われている。  「あぁ、そうだ。晩御飯といえば斜坂さんは今頃弟さんとお酒でも飲んでるのかなぁ」  家族と過ごす時間は、時間に追われる現代人にとって貴重な時間だ。社会人になり、仕事に追われる斜坂さんには癒しの時間になってくれるだろう。待合室の机を拭きながら、僕は彼らのことに思いを馳せた。不意にガタンとリモコンを取り落としてしまった。少し疲れているのだろうか、手元が狂う。  「やれやれ、これじゃあ患者さんのことを言えないな。休みが必要なのは僕かもしれない」  言いながら僕はリモコンに手を伸ばし、沈黙していた画面に命を吹き込む。今の時間であれば、バラエティ番組でもやっているのだろうか。案の定ゴールデンタイムのバラエティ番組を放送していた。内容は今流行りの芸人たちが秘境を旅するという企画だった。忙しいはずのタレントたちだが、一体いつ海外に行っているのだろうか。  その時だった、軽やかな音と共に、緊急速報が流れる。どこかで地震でもあったのか、それとも芸能人の結婚発表だろうか。  だがそのどちらでもなかった、僕はそのニュースに驚愕する。  『練馬区のアパートで刺殺事件が発生。容疑者を現行犯逮捕』  これには流石に驚いた。何せ練馬区と言えば、僕の働く仕事場があるからだ。近くで事件があったとなればおたおたしていることもできない。  僕は急いで片づけを済ませ、自宅に帰宅した。残念なことに僕は小心者だったので帰りにコンビニ寄ることなく帰宅した。おかげでその日の晩御飯は鯖の味噌煮缶だけだった。流石に熱帯魚の餌を食べるわけにもいかなかったが。             ●  驚愕したというなら、翌日の朝のニュースの方だった。僕は今でも斜坂さんをカウンセリングした日のことを思い出しては後悔している。もっと何か言ってあげればよかったとか、あるいはそれに気が付くことができればとか。  そんなことが、今となっては後の祭りだということなど分かっているのに。  刺殺されたのは斜坂来途さんで、会社員の男性だった。身体の正面側を包丁でめった刺しにされており、死因は失血性ショックだったという。容疑者は現行犯で逮捕された。名を、斜坂玲風戸といい、都内私立大学の三年生だった。犯行動機は金銭トラブルで、ドラッグを買うための金を無心していたという。麻薬組織が摘発されたことで、既に出回っていた薬の値段が高騰したのが原因だったと聞いた。まあそんなもの、売る方も買う方も悪いのだけれど。  僕があの日カウンセリングしたのは弟の方だった。薬の影響で、玲風戸さんは自分が来途さんだと思い込んでいたのだという。まるで本人のような言動も、ずっと兄と共に成長してきたのなら自分のことのように分かるだろう。それに平日にやってきたのも、大学生だったからというのも嫌に納得できる話しだった。  僕には現場の状況が手に取るように想像することができる。自分で刺し殺した来途さんの顔は、鮮血に塗れていた。真っ赤な、自分に流れているものと同じ血が。  何てことはない、夢の中で血に塗れていたのは玲風戸さんではなかった。ずっと一緒に大きくなってきた双子の来途さんだったのだ。  あの夢は死ぬ夢ではなかった——殺す夢だった。
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