* 帰る場所~如月穂積~

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 ようやく寒さがやわらいできた、春の彼岸入り。今日は、少し湿った風が吹いている。雨が近づいているのだろうか。穂積は足を速め、一面に広がる田園風景の中の、細いあぜ道を歩いていた。手には、さっき花屋で買った花束をふたつ持って、この先にある小さな墓地へ向かう。ここは、埼玉の東端。東京都心から約一時間ほど電車に揺られたのち、最寄りの駅から大人の足で、さらに四十分歩いた先にある、辺境の地。どこまでも続く田園風景が広がる、のどかな町だ。 「一年ぶりか……」  町といっても、ここは東京のように便利ではない。店や街灯も少ないので、日が暮れれば真っ暗闇になるし、雨が降ってきたって雨宿りする場所も見つけるのには苦労する。穂積は空模様を確かめるように歩きながら、田んぼの(すみ)の小さな墓地へ入ると、その墓地の一番小さな墓石の前で立ち止まった。  雑草……抜いたばっかりって感じだ。綺麗にしてもらってるんだな……。  ここは、母の墓だ。五年前の五月三日。すがすがしい晴天の日。母は亡くなった。彼女は、長いこと精神的な病を患っていて、投薬治療を続けていたが、心臓病とか、がんとか、大きな病気を(かか)えていたわけではなかった。ところが、ある日。スーパーへ買い物に行った帰り道に、交通事故に()ったのだ。猛スピードで赤信号を無視し、交差点に進入したスポーツタイプの車にはねられた。即死だった。  穂積は、持っていた花束を墓石の両脇に(そな)え、手を合わせ、目を閉じる。  母さん、ごめんな……。ミイラ取りが、すっかりミイラになっちゃったよ……。後悔はないけどさ。  心の中で、そう母に語りかけた。育児放棄され、物心ついてからは、なにを話しかけても無言だった母。そんな母に愛された記憶はほとんどないものの、穂積は母を嫌いにはなれず、むしろ同志のように感じていた。もしかしたら、赤荻(あかおぎ)家に都合よく(あつか)われ、切り捨てられた身として同情しているのかもしれない。まだ幼かった穂積から見ても、母はアカオギ製薬の社長、丈太郎(じょうたろう)を愛していた。たぶん、一方的に捨てられたあとも、ずっと。彼が戻るのを盲目的に待っていた。  ……にしても、あんたはあんな男の、いったいなにがそんなによかったんだ?  好いた男に(だま)されていたことを受けとめられず、捨てられたことをも信じられず、ひどく不憫(ふびん)だった母。自分を見失い、去った男との思い出を追いかけ、執着していた母。そんな母と自分のために、穂積は赤荻家を内部から崩壊させてやろうと、アカオギ製薬のグループ会社に転職し、丈太郎の息子、赤荻夕に近づいた。それなのに、気付いたら彼を愛してしまっていたなんて。まったく間抜けな話だ。  今、穂積は夕の幸せを心の底から願っている。きっと、さすがの母も天国で(あき)れているだろうが、後悔していない。夕に、男として愛してもらえなくても、こんなに深く、強く、誰かを愛するということを知り、長年抱(かか)え続けていた、恨みつらみを手放すことができたのだから。そう思った時、ふと。丈太郎の言葉を思い出す。 『君は本当に、お母さんとよく似ているよ』 「は……、そうなのかもな……」  思わず頬を(ゆる)め、丈太郎に返すかのように口に出して呟く。母とよく似ていると、自分でも思った。親子そろって、人生が大きく変わってしまうほど、赤荻家の男に心を奪われてしまったのだから。  まったく、しょうがない親子だよなぁ……。だけど、母さん。オレは夕を愛したことを、本当に後悔してないんだよ。むしろ、あいつを好きになって、恋をしてよかったとさえ思ってる。あいつに恋なんかしなかったら、オレはこんな気持ちで、あんたの墓参りなんか、たぶん来れなかったし、いつまでも復讐とか、因果(いんが)とか、そういうものに執着して生きていただろうからな。  どうしてだろう。失恋したというのに、穂積はなぜか、夕にえらく幸せにしてもらったような感覚があるのだ。使用人の柳太と、毎晩のように愛し合う夕を見せつけられて、ひどく傷ついたはずなのに、どうしてか、もっと昔から欲しかったものをもらったような、そんな感じだった。こんなところも、母と似ているのだろうかと、穂積は笑みを零す。 「妙なもんだよな。それじゃ、母さん。また来るよ――」  そう言って、墓前に頭を下げる。ところが、その時だった。 「穂積か?」  優しげな声に呼ばれて、ハッとして振り向く。すると、墓地の入り口には、ちょっと頑固そうな雰囲気をまとった老齢の男が、手に傘を二本持って立っていた。 「なんだぁ、やっぱりだ。うちへ来る前に、ここへ寄ってるんじゃないかと思ったんだ」  この男は、如月(きさらぎ)幸作(こうさく)。書類上の、穂積の養父だ。彼はネグレクトだった母のせいで、児童福祉施設にいた穂積を、縁あって養子として引き取ってくれた、母の遠い親戚だった。――といっても、それは高校生の頃の話。穂積は高校を卒業したあと、就職をしてすぐに家を出たため、一緒に暮らしたのはほんの数年だった。しかも、幸作と穂積は血の繋がりはなく、穂積はそれまで、彼の名前を聞いたことも、会ったこともなかった。 「おじさん、お久しぶりです。お元気ですか」 「ぼちぼちだよ。さぁ、行こう。雨が来るぞ」 「はい」  そう言って、穂積は小さな墓地を出る。養子として、如月家に引き取られ、一緒に暮らしていた頃、幸作との関係は決してよくなかった。穂積は当時、心をかたく閉ざしていたし、幸作は昔から頑固で感情的になりやすく、よく声をあげて怒ったからだ。そんな幸作が、穂積はどちらかというと少し苦手だったし、彼を理解してそばにいる妻、たえ子のことも苦手だった。だが、如月夫妻の優しさや愛情は確かなものだった。それを知ったのは、この家を出ると決めた夜のことだ。 「穂積。今夜はごちそうだぞ。穂積が久しぶりに帰ってくるからすき焼きしようって、たえ子のやつ、朝から大張り切りだ」 「すみません……、気を遣わせてしまって……」 「いいんだよ。あいつはお前が帰ってくんのが嬉しくって、勝手にやってるんだから」  幸作は、そう言って嬉しそうに肩を揺らしている。穂積は釣られるように笑みを零し、今にも泣き出しそうな空を見上げて、思い出していた。 「穂積。ちょっとそこに座りなさい」  高校を卒業したら、就職して、ひとり暮らしをする。この家を出る。そう決めたと、ふたりに話した夜。幸作は風呂から上がってきた穂積をつかまえて、そう言った。大学には行かないと言ったとき、彼はずいぶんと不服そうな顔をしていたから、おおかた、就職に反対し、大学進学を(すす)める気なのだろう、と思った。穂積は面倒だと思いつつも、言われるままに居間へ移動し、畳の上にあぐらをかいた。 「お前がなんで就職したいのかは、だいたいわかってるつもりだし、別に反対しようって気はない。ただ、間違うんじゃないぞ。お前は……、如月穂積だ」  幸作は穂積と同じように、畳の上であぐらをかき、そう言った。 「なにを急に……」  言葉の意味が全くわからず、穂積は思わず、(まゆ)をしかめた。だが、幸作はそんな穂積にかまわずに続けた。 「いいから聞け。お前は如月穂積で、ここはお前の家だ。だから、お前はいつでもここに帰ってきていい。お前は嫌かもしれないが、オレはお前の父親で、お前はオレの息子だからな」 「……書類上、です。おじさんたちとオレは、どうせ血の繋がりだって――」 「それでも、だ。だからな、オレはときどき、お前を怒ったりもする。親子である以上は、お前にとってうるさいことも、ムカつくことも言う。残念ながら、そういうのはオレが死ぬまで、ずっと変わらない。ずっとだ。わかったな」  その時、言葉が出なかった。わかってはいたが、この男はとてつもなく不器用だ。不器用だが真っすぐで、その言葉には嘘も(いつわ)りもない。それが、こんなに自分を安心させてくれるものだということを、穂積は初めて感じていた。 「オレが言いたいことは、それだけだ。じゃあな、おやすみ」  上手くはないが、幸作はたしかに穂積を愛してくれていたのだ。穂積に怒るのは、うるさく小言を言うのは、愛しているからだ。家族だからだ、と。彼はそう伝えてくれた。穂積に、家族の大切さや安心感を最初に教えてくれたのは、幸作だった。ただ、穂積が心からそれを理解できたのは、家を出て、何年も時が経ってからだった。 「おばさんのすき焼き、楽しみですね」 「あぁ。うまい日本酒を買ってあるから、一杯やろう。今日は泊まっていくんだろ?」 「……いいんですか」 「当たり前だろが。穂積の仕事の話、たえ子が聞きたがってたぞ」 「ありがとうございます」  あれから、十年以上の年月が経っている。穂積が如月夫妻を家族だと思えるようになったのは、家を出て、本当にずいぶんと経ってからだった。ちょうど、鎌倉の屋敷に移住した頃だ。  鎌倉のあの家で、夕や尚央と暮らし始めて、オレはようやく、家族ってもんが少しわかって……、やっと、この人の言葉の意味を理解した。家はいつでも帰れる場所で、そこに、オレを待っててくれる人がいる。それは、家族ならずっと変わらない。どれだけ離れていても、ずっと。  時間はかかったが、穂積はそれを理解し、それからは年に一回、必ず墓参りに来ている。だが、それでも如月夫妻には連絡を入れられず、会いにもこれなかった。逃げるように家を出て、何年も連絡しなかったのに、ある日、当然のように家族として帰ることなどできなかったのだ。けれど、数日前。穂積は久しぶりにふたりに会うために、意を決して連絡をとり、今日、ここへ来た。 「穂積。お前、背が伸びたよなぁ」 「そ、そうですか……」 「でかくなったよ。――あ、いや。オレが(ちぢ)んだのかな」  幸作はそう言って笑みを零す。たしかに昔より少し、背が小さくなったような気がして、穂積はその背中を見つめた。  今度からは、もう少しまめに顔出そうかな……。  どんなに離れていても、父だと言ってくれた幸作と、母でいてくれたたえ子。ふたりの存在が気がかりでありながら、ずっと会いにこれなかったのは、ひとりの人間として、自信がなかったのもある。家出をするように姿を消して、赤荻家に恨みを(かか)えて、復讐に燃えて、そんな自分がひどくカッコ悪いと、養子として引き取ってくれたふたりに合わせる顔がないと、そう思っていたから。けれど今は、堂々としていられる。それはたぶん、帰る場所と、家族ができたせいだった。 「穂積。お前、いくつんなったんだ?」 「三十五です」 「そうかぁ、三十五かぁ。そりゃあ、オレも歳を取るわけだよなぁ」  幸作はそう言って、笑っている。気のせいだろうか。彼は以前よりも、いくらか穏やかになったようだ。 「お前、ずっとひとりか?」 「ええ……。それが、その……」 「なぁんだよ。嫁さんでももらったのか」 「いえ、嫁さん……じゃなくて――」 「あぁ? お前まさか、籍も入れねえで子どもでも育ててんじゃねえだろうよな?」 「あぁ、そういうのとも違うので……。大丈夫です……」 「なら、いいけどよ。子どもができちゃったんなら、ちゃんとしねえとな」 「はい……」 「まぁ、いい人ができたんなら、それでいいんだ。できなくってもいいけどよ」 「はぁ……」  夕への片想いは実らなかった。だが、穂積は愛されている。家族として。こうしている今も、彼はきっと穂積の帰りを待ってくれている。彼だけではない。柳太も、望も、尚央も。穂積の帰りを待っている。それが今、どれほど穂積にとって、生きる(かて)になっているか。たぶん、彼らだって想像できないだろう。  穂積は、北鎌倉で待つみんなの顔を思い浮かべ、少しだけ笑った。六月には、あの屋敷へ帰らなければならない。使用人と交わした大切な約束を、忘れるわけにはいかないのだ。それに、望と尚央は、きっと誰よりも、穂積の帰りを待ってくれている。 「あの、おじさん」 「ん?」 「嫁さんも、子どももいませんが、オレには今、大事な家族がいます。とても、大事な人たちです」 「ふうん。そうかい」 「でも、オレは……、大事なものを大事にするのが、ちょっと下手なのかもしれません……」  穂積がそう言うと、幸作は「ははっ」と声を出して笑った。それから、振り返らずに言う。 「お前はぶきっちょでガンコだもんなぁ。まぁ、わかってくれるやつぁ、ちゃんとわかってくれるさ。お前がそれだけ大事にしてんなら、向こうだってきっと同じだろうからな」  そういうものだろうか――と首を傾かしげる。だが、不思議なことに、幸作の言葉に嘘はないような気がして、穂積は頬を(ゆる)めた。 「……だと、いいんですが」 「はははっ、しょうがねえ。オレも昔から、ガンコジジイってよく言われたもんでよ。まぁ、血は争えねえんだってことにしときゃあいいさ」  穂積は目を(みは)った。それから、少しだけ笑みを零した。今、彼がどこか自虐的に言った冗談は、穂積に最大限の愛情と励ましをくれた。まるで彼は、お前はオレの子だからしょうがねえ、とでも言ったようだったが、この男と穂積に、血の繋がりはないのだ。もちろん、そんなことは、互いにわかりきってもいる。  この人は、昔から変わっていないな……。不器用で、ガンコで、口が悪くて、(わずら)わしいほど、優しくて、真っすぐで、ものすごく愛情深い人だ。 「あーあぁ。腹がへったなぁ。今日は朝から庭の草をむしったりしたもんで、すっかりくたびれちまったよ。歳をとるってのは嫌だねぇ」  幸作のぼやきに、穂積は再び、笑みを零す。ひとまず今晩は、すき焼きを囲んで、如月夫妻といろんなことを話そう。次はお盆に来て、墓のそうじをしなきゃいけない。そんなことを考えながら、穂積はさっき歩いてきたあぜ道を戻った。やがて、ぽた、ぽたと頬や腕に雨粒が落ちてくると、幸作は「ほーらきた、やっぱり雨だ」と、どこか得意げに言って、穂積に一本、傘を手渡してくれた。だが、その傘を見た途端、穂積はハッとする。  あれ、この傘……。昔、オレが置いてったやつじゃないか。まだ、使ってるんだな……。  ちょっと時代に合わないデザインの古びた傘を持ち、胸の奥が熱くなる。自分は愛されているのだと、その事実にじかに触れたような気持ちになったのだ。 「早いとこ帰ろう、穂積」 「はい。あの、おじさん」 「なんだい」 「次はお盆に……、また来ようと思います。そのときはまた、お世話になってもいいですか」  小さくなった背中に、穂積は(たず)ねる。すると、幸作は振り返り、にかっと笑って答えた。 「なあに言ってんの。実家に帰ってくんのに、いちいち遠慮するやつがいるかよ」 「実家……」 「……いいから、急ぐぞ。ぐずぐず歩いてっと濡れっちまうよ」  足早に、あぜ道を歩く姿は、どこか浮かれているようにも見える。穂積は丁寧に傘を開き、彼の背中を追った。
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