不思議と潰れない本屋のからくりミステリー

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 春、桜の花がひらひらと舞い落ちてねずみ色のアスファルトが桃色の絨毯に様相を変える頃、各地の会社では入社式が行われていた。入社式に参加し同じ画像のコピーペーストを何回も繰り返したかのようなスーツを纏い就職活動を勝ち抜いた猛者たちがおそらくはほぼ会えないであろう社長や重役の訓示に耳を傾ける。その訓示も社員は宝だとか、これからの仕事に対する心構えだとか、親しみを持たれるような失敗談だとか、聞こえのいい美辞麗句の博覧会のようなことを並び立てている。一部の肝の据わった新入社員は既に船を漕いでいた。入社式から寝てはならないと必死で耐えたり、緊張で眠気も起こらないのか真面目に聞いたり、本当に真面目に聞いている者もいる。この場合、会社で長く続けられるのは船を漕ぐ者である率が高い。  場は変わって「ダンテ書店」人口三十万の地方都市のほぼ中央に位置する場所の駅前にこの個人書店はあった。店の外観は打ちっぱなしのコンクリート低層ビルの一階にぽつりとある感じで、明日にでも風が吹いて潰れてもおかしくないぐらいの小さな書店であった。この書店に就職を決めた女性こそ、この店の店主の孫の文夏である。文夏は皆がスーツを着て入社式に参加している中、店主の有鹿にエプロンを手渡された。 「これがうちの制服だよ」 「え? 制服ってこれエプロンじゃない…… 普段着でいいって言うから本当に普段着で来たけど」 「スーツなんて動きにくい服この店にいるうちは着るんじゃないよぉ。本屋は昔っから普段着にエプロンって相場が決まってるんだよぉ」 その時、ダンテ書店の前に一台のトラックが停まった。降りてきた筋骨隆々とした運転手が幾つものダンボールを降ろして、店の中に運んでくる。 「あれぇ? 有鹿の婆ちゃん? この娘誰だい?」 文夏は筋骨隆々とした運転手に一礼した。彼もすぐにペコリと礼を返す。 「あたしの孫だよ。あたしも先長くないから孫を雇ったんだよ」 「そうかぁ…… 有鹿の婆ちゃんももう引退かぁ。オヤジの頃から世話になってるのに寂しいなぁ」 筋骨隆々とした運転手はダンボールを降ろし終えて、有鹿に受け取り印を押して貰うと直ぐ様に店を後にした。 「じゃあ。ここから本を出すから文夏も手伝っておくれな」 文夏はエプロンをカウンターの上に置いた。有鹿の目がギロリと厳しく光る。 「本の入ったダンボールって埃が凄い被ってるんだよ。このままの(なり)でダンボールなんてあけたらすーぐに埃まるけまっ白けになるよぉ。まずエプロンをおつけ」 文夏はエプロンを付けた。エプロンの形状はよくあるバッククロスエプロンである。 胸当てから出た左右の紐を輪っかにし腕を通し、そこから出た紐を背中で蝶々結びにするスタンダードなものであった。 文夏はエプロンを付けて違和感に気がついた。料理で使うものと違ってポケットがやけに多い。膝前の左右のポケットに中央に有袋類の袋を思わせる大きなポケット、左胸ポケットの合計4つ、普通のエプロンに比べて明らかに多い。 「レジの裏のペンケースからペン取りな。色々書くことが多いからボールペンに限らず蛍光ペンとか修正液とかごそって入れなぁ。あ、ボールペンだけは一番使うことが多いから胸ポッケに入れときなよ。カッターや注文短冊の小物やシャチハタ印も引き出しの中に入っとるから入れときぃ」 文夏は有鹿の言う通りにエプロンのポケットに必要なものを全部入れた。 「そうだ、就職祝いさぁ」 有鹿は自分のポケットから新品の手帳を出した。黒革で高級感が漂う手帳であった。 「脱税者リストなんか書いてないから安心しときいなぁ」 有鹿の文学ジョークは誰でも知っているような文学ネタからマイナーな文学ネタまで拾ってくるので付いてこられる人はそうそういない。 今回は松本清張の黒革の手帖であることは文夏はすぐに分かった。 「多分書くこと多すぎてすぐに二冊目三冊目って使うことになるから一冊目の時点で何を書けばいいか覚えておくんだよぉ」
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